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『仁井田川・新舞子』(令和元年7月10日市公式Facebook投稿)

登録日:2019年7月10日

いわきの『今むがし』Vol.122

写真1
上 仁井田川左岸〔昭和時代初期、郵便絵はがき「日本百景ノ一・磐城新舞子」新舞子浜遊覧案内組合〕
下 仁井田川河畔のボート〔昭和48(1973)年7月 、いわき市撮影〕


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 新舞子は、北は四倉から南は沼ノ内まで、約11kmに及ぶ、文字通り白砂青松の砂浜です。
 この「青松」は、江戸時代、磐城平藩主・内藤家が海岸平野の続く四倉、仁井田、下神谷の村々に新田を開墾する際に、防潮や砂防のため、海岸線に沿って塩除けのマツを植林したものでした。時期は寛文年間(1661-73)とされますが、その後も天和2、3 (1682、3)年、元禄12(1699)年と植林された記録があります。                   
 これらの松林は道山林(どうさんばやし)と呼ばれています。道山は内藤政長の剃髪した後の法名です。政長が亡くなったのが寛永11(1634)年なので、つじつまが合いません。すでに息子の忠興(ただおき)の時代となっていますが、亡き父をうやまっての命名であることが推察されます。江戸時代、このような例はよくみられました。
 この松林は羽衣(はごろも)の松、臥竜(がりゅう)の松、竜頭(りゅうず)の松、三龍(さんりゅう)の松と呼ばれるマツが、所々に特徴を見せていました。さらに、明治36(1903)年から昭和10(1935)年まで順次潮害、潮害防備保安林に指定され、海岸防災林造成事業の実施など、保安林整備が進められました。
 新舞子浜には大規模な砂丘は発達していません。砂丘としては初期の状態で、飛砂が堆積した小丘が舌状に緩やかな起伏をつくり出しています。海岸には防潮堤が設けられて情緒が失われつつある現在の砂浜とは異なり、かつては自然景観に満ちた海岸でした。
 この砂浜の海岸線に「新舞子浜」と命名されたのは、大正時代のことでした。兵庫県の舞子浜海岸に似ていたことから、この名に「新」の冠を付けて普及させたのです。 
 砂浜が脚光を浴びる契機となったのは、この海岸線が、大阪毎日新聞、東京日々新聞社主催の日本新名勝百景「日本百景」に推薦されてからでした。
  この海岸に注ぎ込むところまで流れてくるのが、仁井田川(延長25.5km)です。しかし、一帯は太平洋の沿岸流が運ぶ砂に塞がれてしまい、そのまま流れません。川はここからは、南下する通称・横川(延長約4km)が受け皿となって流れ、平下神谷字沢帯(ざわめき)で夏井川に合流します。
 この“閉鎖された河口域”は袋状になっていて波もないため、貸しボート店や飲食店が店開きして、ボート遊び、地引網、キャンプ、魚釣りなど、広い新舞子浜における行楽拠点の一つとなっていました。
 

写真2
上 仁井田川河口付近左岸を上流に向かって見る・河口付近の樋門と護岸を前出し〔平成27(2015)年1月、いわき市撮影〕
中 東日本大震災で被災した河岸を増強中の仁井田川左岸〔平成28(2016)年3月、いわきジャーナル撮影〕
下 完成した仁井田川の堤防増強 下流側に新しい東舞子橋が架橋され、旧東舞子橋を撤去。〔平成31(2019)年3月、いわき市撮影〕

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 太平洋の波に洗われた新舞子と背中合わせに、静かな水面の横川が並行して流れています。
 ボート遊びは、仁井田川の川水は太平洋の砂浜を指す新舞子浜、この浜堤の背後の低地を南下し、松林を片方に、もう一方に田園風景を見て、海岸線に沿った浜堤背後の後背湿地を蛇行しながら、緩やかな流れを行き来するものでした。川べりは今では単調な景色になりましたが、かつては塩沼や葦原が広がっていて雅趣豊かな光景が見られました。
 新舞子海岸を含む一帯が「磐城海岸県立自然公園」に指定されたのは、昭和23(1948)年7月のことです。
 福島県観光連盟は、県内における4か所の「海と山のキャンプ村」づくりを推進し、海のキャンプ場として、昭和25(1950)年7月、草野村に磐城新舞子キャンプ村を開設しました。昭和27(1932)年、県内6か所をキャンプ村に指定し、新舞子と仁井田浦も挙げられました。
 昭和30年代から40年代にかけて、高度経済成長が継続し、公民館主催による教育活動、さらには若者を中心としたレジャー活動と、多様に余暇を過ごす傾向が広がります。松林の中には、南北に四倉町から滑津川(なめづがわ)河口まで9.8kmの県道豊間・四倉線が昭和39(1964)年に開通。さらに、同区間の全線舗装が昭和54(1979)年3月に完成しました。このことに利便性が増し、途中に点在するキャンプ場、新舞子浜公園などには、家族連れや散策で憩う人、釣り人などが多く訪れるようになりました。
 昭和55(1980)年7月30日付いわき民報は、『新舞子海岸には新舞子と仁井田のキャンプ場が配備されているが、流行のワゴンやバン型の自動車が入り込み、キャンプ場に野営や露営ではなく“車営”であった。キャンプ場の周囲は防潮林。潮害防備保安林の立て看板には4項目の禁止事項が表記され、その1項目に「車の乗り入れ禁止」が記されていた。』と報じています。
 その後も、両キャンプ場は多くの人に利用されてきましたが、平成23(2018)年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)に起因する大津波で海沿いの両キャンプ場は大きな損壊を受けたため、平成25(2013)年に廃止となりました。
 かつてボート場のあったあたりは災害防止のための堤防が築かれ、また東舞子橋も下流側に架け替えられて、景観は大きく変化しています。
 (いわき地域学會 小宅幸一)

 

その他の写真

写真3 新舞子海岸(大正時代、絵はがき)

写真3 新舞子海岸(大正時代、絵はがき)

 

写真4 磐城新舞子 〔昭和時代初期〕

04 磐城新舞子 〔昭和時代初期〕

 

写真5 横川(昭和10年頃、郵便絵はがき「常磐線四倉」)

06 みはらしやとボート(昭和20年代、郵便絵はがき「日本百景ノ一 磐城新舞子」新舞子遊覧案内組合発行)

 

写真6 みはらしやとボート(昭和20年代、郵便絵はがき「日本百景ノ一 磐城新舞子」新舞子遊覧案内組合発行)

6 みはらしやとボート(昭和20年代、郵便絵はがき「日本百景ノ一 磐城新舞子」新舞子遊覧案内組合発行)

 

写真7 仁井田川左岸から横川を見る(昭和20年代、郵便絵はがき「日本百景ノ一・磐城新舞子」新舞子浜遊覧案内組合発行)

7 仁井田川左岸から横川を見る(昭和20年代、郵便絵はがき「日本百景ノ一・磐城新舞子」新舞子浜遊覧案内組合発行)

 

写真8 仁井田浦のボート(昭和30年頃、大平喜一氏撮影)

仁井田浦のボート(昭和30年頃、大平喜一氏撮影)

 

写真9 仁井田キャンプ場(昭和40年頃、小泉屋文庫提供)

09 仁井田キャンプ場(昭和40年頃、小泉屋文庫提供)

 

写真10 磐城新舞子(昭和40年代、郵便絵はがは「たいら観光エはがき」平市観光協会発行)

10 磐城新舞子(昭和40年代、郵便絵はがは「たいら観光エはがき」平市観光協会発行)

 

写真11 仁井田浦のキャンプ場(昭和48年7月、いわき市撮影)

11 仁井田浦のキャンプ場(昭和48年7月、いわき市撮影)

 

写真12 東舞子橋と仁井田川のボート(昭和48年7月、いわき市撮影)

12 東舞子橋と仁井田川のボート(昭和48年7月、いわき市撮影)

 

写真13 仁井田浦(仁井田川付近)から南方を見る(平成3年8月、いわき民報社撮影)

13 仁井田浦(仁井田川付近)から南方を見る(平成3年8月、いわき民報社撮影)

 

 

写真14 仁井田浦・いわき百景(平成6年、いわき民報社撮影)

14 仁井田浦・いわき百景(平成6年、いわき民報社撮影)

 

写真15 仁井田川に架かる東舞子橋の架け替え工事を北側から見る(2)(平成29年3月、いわきジャーナル撮影)

15 仁井田川に架かる東舞子橋の架け替え工事を北側から見る(2)(平成29年3月、いわきジャーナル撮影)

 

写真16 四倉町の仁井田川に架かる東舞子橋を北側から見る(平成30年3月、いわきジャーナル撮影)

16 四倉町の仁井田川に架かる東舞子橋を北側から見る(平成30年3月、いわきジャーナル撮影)

 

地図1 仁井田川、新舞子、横川〔1.50,000地形図 平(明治41年測図)国土地理院発行〕

地図1 仁井田川、新舞子、横川〔1.50,000地形図 平(明治41年測図)国土地理院発行〕

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