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『平字田町』(平成27年1月7日市公式Facebook投稿)

登録日:2015年1月7日

【いわきの『今むがし』 Vol.14】

【新田町通りの七夕祭り 場所柄、絵はがきのなかには芸妓の姿も見えます。〔昭和11年(1936年)8月 『磐城平町名物七夕祭絵はがき』 福島民報社平支局発行〕】

昭和11年の平七夕祭り

 現在、繁華街となっている平字田町界隈(かいわい)が、江戸時代には上級の武家屋敷であったことを知る人は、どの程度でしょうか。
 このことと現在を比較したとき、いわき市のなかでも、最も著しい変化を示した個所の一つとして、容易に浮かべることができるでしょう。
 その武家屋敷も、江戸時代初期には湿地や沼地でしたが、磐城平藩主 内藤家の時代に家臣が増えたことから、上級の武家屋敷に当てられました。1戸当たりの屋敷が広めに区割りされていて、合計しても15戸程度でした。
 その後、戊辰戦争で磐城平城が落城すると、それまでの機能が一掃され、明治時代初期には堀も埋められ、一帯は官宅と2、3戸の家屋以外には人気(ひとけ)のない桑畑へ転化していきました。
 この一帯が最初に変化をみせたのは、後に並木通りにあたる、江戸時代にも存在した道路沿いでした。田街(たまち)小学校や平中学校の校舎、磐前(いわさき)県庁、石城(いわき)郡役所の庁舎などが開設され、官庁街としての体裁を整えていきます。
 これがふたたび大きく様変わりする契機となったのは、明治30年(1897年)2月、日本鐵道磐城線(現常磐線)の水戸-平が開通して平(現いわき)駅が開設されて以降でした。
 明治時代から大正時代へ移行する過程で土地利用が一変し、花柳界へ変貌していきます。それまで花柳界は子鍬倉(こくわくら)神社下から一、二町目付近にかけて小規模で点在していたのですが、石炭景気と駅開設が経済の発展と街の活性化を生み、田町の畑に石炭ガラを入れて整備した所へ移転してきた花柳界は、これらの動きと連動してたちまち膨れ上がっていきました。この変容が明治時代末に通称地名「新田町」を付すことを促し、意識的に従来の正式地名「田町」と区別したのでした。
 この花柳界が集まった通りが、「新田町通り」と呼ばれました。その通りの北側は「仲田町通り」、南側には排水路の暗渠化で道路が仕立てられ、昭和10年(1935年)6月に通称「紅小路(べにこうじ)」と名付けられました。

【平字田町(紅小路)の昼下り〔平成元年(1989年)4月、高萩純一氏撮影〕】

平成元年の平字田町地内

 レンガ通り (旧西村屋横丁)とラトブ西側の銀座通りを縦のラインとすると、横の3本のラインはいずれも道幅が狭いのですが、実に多くの飲食店がひしめきあっています。
 このうち、真ん中の新田町通りには、かつて山形屋、橘屋、開花、三島屋など、格子づくりの芸妓置き場や待合、飲食店が軒を並べていました。大正5年(1916年)に記録される、平町における芸妓168人は、ほとんどここで華やかさを競っていました。
 活躍の場は夜だけではありませんでした。
 昭和6年(1931年)3月17日付の『常磐毎日新聞』は、「平藝妓(げいぎ)屋組合では十五日役場内に協議會を開き、來(きた)るべき花見時には不景氣 (ふけいき)一掃策を立てて、地方人心に春らしい氣分(きぶん)を滿喫(まんきつ)させようと、先(ま)づ公園トキワ亭前に大櫓(やぐら)を上げ藝妓五十余名に滿艦飾(まんかんしょく)をほどこして、元祿(げんろく)花見踊外(ほか)五種目の手踊を出演することになった」と、松ケ岡公園への出演を前に稽古中(けいこちゅう)であることを報じています。当時の花見に対する期待感や芸妓が華やかな舞台を一層盛り上げている様子をうかがうことができます。
 戦争や戦後の混乱という社会の激動を経て、夜の世界は芸妓対女給という対立構図はありましたが、棲(す)み分けされて昭和30年代まで続きました。  
 しかし、昭和30年初頭から始まる高度経済成長は、産業構造の変化や国際情勢の影響を受け、日本人の暮らしはもちろん働き方や遊び方など、あらゆる分野で変容をもたらしました。
 日本人の日常は和式から洋式へ変化し、夜の遊びも芸妓から社交クラブへ、料亭から割烹へ、さらにはスナック、バーが台頭して、目まぐるしく変化していきました。

【平字田町(紅小路)の夜 〔平成26年(2014年)12月 いわき市撮影〕】

現在の平字田町地内

 江戸時代の町割図をみると、町屋が並ぶ本町通りと武家屋敷のある田町の間には、武士と町人を区別する掘割が設けられていました。その位置は紅(べに)小路を含む新田町通りまでの間です。つまり、紅小路を含む北側の飲食街は、昔の掘割の上に立っているのです。
 明治時代以降、掘割は、南側に幅の狭い排水路を残して埋めたてられて市街化していき、さらに1回目に記述したように排水路は地下に閉じ込められ、視界から消えていきます。
 レンガ通りと銀座通りを結ぶ3本のうち、新田町通りと紅小路が特に道幅が狭いのは、こういった歴史的な理由によるものです。
 さて、「小路」を辞書で見ると、「幅の狭い路」あるいは「大通りから入り込んだ幅の狭い道」と辞書に書かれてあります。一方、近年耳になじみやすくなっている「○○横丁(町)」をみると、「表通りから横に入った町筋、またはその通り、あるいは細い道」とあります。
 なんとも、言葉だけでこの空間の差をつかもうとすると難しいようです。
 いずれにしても、メイン通りから入った裏通りともいえる横丁や小路の飲み屋街。居並ぶさまざまな店構えは、懐かしさと居心地の良さ、ほの暗いなかに潜む雑然とした怪しい感じ、それらがないまぜになって、訪れた人を包んでいきます。さらに、行き交う人と肩が触れ合うような有縁・無縁の距離感が加わります。こうして、街自体が独特な匂いを醸(かも)し出していきます。
 今日も、平字田町は、余韻にくるまれた朝ぼらけから午睡へ、昼下がりの寝覚めから気合の夕暮れへ、丁々発止(ちょうちょうはっし)の夕暮れから時間感覚が薄れていく深夜へ、さまざまな表情を見せながら、1日が終わろうとするころ、いつもの手招きで私たちを誘ってきます。

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