コンテンツにジャンプ

市公式Facebook連載シリーズ「安藤信正生誕200年」

登録日:2022年5月23日

 「安藤信正生誕200年」

1

 江戸時代の終わり頃、安藤信正(1819~1871)は江戸幕府の老中として、そして、磐城平藩の藩主として、大きな仕事をしました。
 令和元(2019 )年は、信正が生まれて200年という大きな節目の年にあたることから、市内外の方々に、近世のいわきの歴史について関心や理解を深めていただくため、「安藤信正生誕 200 年」と題し、歴史の転換点となった幕末の日本に大きな影響を与えた信正が行ったことなどについて、市公式Facebookに連載を行いました。
 ここでは、その全19回の連載内容をご紹介します。

 (画像:安藤信正公肖像)


 

 ■少年時代の信正

 信正は文政2(1819)年11月25日、江戸の蠣殻町で生まれました。幼名は欽之進といいました。
数え年4歳、文政5(1822)年閏1月1日には、名を欽之助に改めました。また、数え年11歳、文政12(1829)年12月28日からは信睦と名乗るようになりました。
 そして、数え年17歳、天保6(1835)年12月16日には官位を授かり、従五位下、伊勢守になりました。
 この頃、信正は大いに勉学に励んだといわれています。磐城平藩の儒学者、神林復所(1795~1880年)などから教えを受けましたが、わからないところや疑問に思うところがあると、納得がいくまで、何度も繰り返し、質問をしたといわれています。
 信正のことを調べていると、信正が極めて聡明な人物であることに気づかされます。その土台はこの時期に築かれたのだと思われます。
 

■磐城平藩主に就任

 信正にとって、人生最初の大きな転機は、父、信由の死によってもたらされました。
 弘化4(1847)年6月5日、父、安藤信由が亡くなり、8月2日、信正はそのあとを継ぎ、磐城平藩の藩主になりました。この時、信正は29歳(数え年)でした。
 

■幕閣の道を歩む

2 翌年の嘉永元(1848)年1月23日、信正は江戸幕府の奏者番になり、嘉永4(1851)年6月9日には幕府の寺社奉行見習、そして、同じ年の12月21日には幕府の寺社奉行になりました。
 さらに、安政5(1858)年8月2日には幕府の若年寄になり、安政7(1860)年1月15日には幕府の老中、外国御用に就任しました。
 信正は数え年30歳で幕府の奏者番になり、その後、次々と幕府の要職をこなし、数え年42歳で幕府の老中になったのです。
 激動の幕末、舵取りの難しい時代が信正の能力を必要としたのです。そして、信正は渾身の力で、それに応えたのです。

 (写真:松ヶ岡公園の安藤信正公の銅像)

 

■ペリー来航

 江戸時代の末、アメリカのペリー率いる艦隊が浦賀に来航したのは、嘉永6(1853)年6月3日の午後5時頃でした。
 ペリーは江戸幕府に開国を迫り、翌年の嘉永7(1854)年3月、ペリー再来日の際、日米和親条約が締結されました。なお、この条約が発効されたのは、安政2(1855)年1月5日のことでした。

 この頃、信正は寺社奉行の職にありましたから、開国を直接、所管していたわけではありませんが、幕閣の一人として、ことの成り行きを注視していたことは容易に推測できます。
 

 ■開国派と攘夷派の対立激化

 日米和親条約の締結以降、江戸幕府が進める開国政策に反対する攘夷派の活動が激しさを増し、安政4(1857)年10月21日にはタウンゼント・ハリス襲撃未遂事件が起きました。
 アメリカの初代駐日領事として、日本に着任したタウンゼント・ハリスが、江戸幕府の将軍、徳川家定に謁見する際、襲撃しようと、攘夷派が計画。しかし、襲撃は未遂に終わりました。
 この後、時代は激動の度合いをさらに深めていきます。
 

■信正、幕府の若年寄に

 安藤信正が江戸幕府の若年寄の座にあったのは、安政5(1858)年8月から安政7(1860)年1月まで、1年6か月ほどの期間でした。
 この頃、日本は大きな激動の渦のなかにありました。
 

■日米修好通商条約と「安政の大獄」

 信正の若年寄就任の4か月前の安政5(1858)年4月には、彦根藩主の井伊直弼が幕府の大老に就任しました。
 また、就任2か月前の6月19日には、日米修好通商条約の調印が行われました。これによって、開国を押し進める江戸幕府と攘夷を主張する勢力が激しくぶつかり合い、大老、井伊直弼は「安政の大獄」といわれる圧政を行いました。
 そして、この「安政の大獄」が、まさに行われている時に、信正は若年寄に就任したのです。
 

■頻発する外国人への襲撃事件

4 信正の若年寄在任中には、外国人や外国の施設に対する襲撃事件が頻発しました。
 安政6(1859)年7月27日には、ロシア海軍軍人殺害事件が起きました。ロシア海軍の少尉ロマン・モフェトと水兵イワン・ソコロフが、武装した数人の日本人によって殺害されました。
 安政6(1859)年10月11日には、フランス副領事付き従僕殺害事件が起きました。フランスの副領事ジョゼ・ルーレイロ付きの従僕が何者かによって殺害されました。
 安政7(1860)年1月7日には、イギリス公使オールコック付き通訳小林伝吉殺害事件が発生しました。イギリスの公使館前で、通訳の小林伝吉が2人の侍によって殺害されました。
 安政7(1860)年1月8日には、フランス公使館放火事件が発生しました。当時、フランス公使館は無住でした。
 攘夷派によると思われるこのような事件が頻発し、江戸幕府による国政の舵取りはさらに困難な局面へと陥っていきました。

(画像:ラザフォード・オールコック肖像(国立国会図書館ウェブサイトより転載))

 

■信正、江戸幕府の老中に

 信正が江戸幕府の老中に就任したのは、安政7(1860)年1月15日でしたが、8日前の1月7日には、イギリス公使オールコック付きの通訳、小林伝吉が殺害されるという大事件が起きました。また、その翌日の1月8日にはフランス公使館への放火事件が起きました。
 信正は多事多難な時期に、幕府の老中の職を担うことになったのです。
 

■オランダ人船長殺害事件

 信正の老中就任の翌月、2月5日には、オランダ人船長殺害事件が発生しました。
 オランダ商船の船長ヴェッセル・デ・フォスと商人ナニング・デッケルが何者かによって切り殺されたのです。
 オランダは犯人の逮捕と処罰を江戸幕府に強く要求しましたが、犯人は捕まりませんでした。そのため、オランダはイギリスやフランスの力を借り、被害者1名に付き25,000ドルの賠償金を要求しました。これに幕府は応じ、オランダに1,700両を支払いました。
 信正は老中として、外国御用を担当していましたから、責任者として、この時の交渉に当たり、賠償金の支払いの判断などにも関わっていたと考えられます。
 

■桜田門外の変

5 安藤信正が江戸幕府の老中に就任した頃は、開国か、攘夷か。佐幕か、倒幕か。公武合体(和宮降嫁)を進めるか、阻止するかなどの問題で、国論が大きく分かれていました。
 このようななか、幕府の大老、井伊直弼は「開国」「佐幕」「公武合体」を推し進める自らの政策に抵抗する者たちを厳しく処罰しました(「安政の大獄」)。
 そして、信正の老中就任のひと月半後となる安政7年3月3日、江戸城の桜田門外で、井伊直弼が殺害される事件(「桜田門外の変」)が起きました。

(画像:井伊直弼肖像(豪徳寺蔵))





 

■片寄平蔵が書き写した「桜田門外の変」の記録  

 桜田門外の変の様子は、「いわきの石炭産業の父」と言われる片寄平蔵の書き付け「諸用留」にも記録が残されています。それは次のようなものになります。

--------------------------------------------------
 安政七天申ノ三月三日  桜田御門外ニテ之一件
 大関利十郎 木村五六郎 黒沢大三郎 佐埜竹之介 山口辰之助 廣岡子五良 關新五右衛門 杉山悪一良 増子清太良 廣木松之介 森山繁之允 鯉渕要人 斎藤監輔 稲田重藏 海後先右衛門 岡部三十良 蓮田市五郎
 右〆人数拾七人
  口書
 国元当二月十八日出立ニテ、壱両人ツヽ止宿仕、今朝同意之者、右拾七人、愛タ宕山ニ寄合、桜田御門外ノ辻番所より松平大隅守様御門外ニテ、御駕籠左右より仕懸申候処、一旦は多人数立塞リ候ニ付、及争論、御駕籠江両方より四人斗駈付、御駕籠越しに刺留メ、御引出、御首打取、一同、聲を揚、銘々散々に引取申候ニ付、右拾七人之内、御屋敷御門より駈込ミ、案内を乞候間、御取次キ之役罷出、子細相尋候処、水戸殿家来ニテ、只今、井伊掃部頭様を討取候ニ付、此段御役所江罷出、可申上筈之所、何れも土地不案内ニテ、此方様江罷出、公儀之御裁許相待覚語ニテ、夫々江御連被遊、夫迄之御撫育被成下候様、一同奉願上候。委細之儀は御重役様之内、御目ニ懸リ、可申上旨申聞候間、小姓江打合、表下之間にて、右應對致し、御取次役より、仕儀直々、吉田平重良、重役方へ罷出、其筋江御進達ニ相成、水戸殿江御使者、中根平八良罷越。
   寺社御奉行  松本伯耆守様
   町御奉行   池田播磨守様
   大目附    久貝因幡守様
  辞世
 長かれとおもふ命も春の日に散る桜田になみだこぼるゝ
   桃月十日うつす
                  (片寄平蔵「諸用留」より)
--------------------------------------------------

 これは桜田門外の変の7日後、平蔵が白河近くの白坂宿に宿泊した際、書き写したものになります。人物の名前などには書き写した際の誤りが見られます。
 

■信正、江戸幕府の屋台骨を支える

7 安政7(1860)年3月3日、江戸城の桜田門外で、幕府の大老、井伊直弼が殺害された後、江戸幕府の屋台骨を支えたのは老中の職にあった信正たちでした。
 この年の3月以降の信正関係の歴史年表を見ると、その職務の厳しさや激しさがひしひしと伝わってきます。

  • 4月8日 アメリカ公使タウンゼント・ハリスと面会。
  • 6月2日 ポルトガル使節ギマーレスと面会。
  • 6月13日 イギリス公使オールコックと面会。
  • 6月17日 ポルトガルと修好通商条約を締結。
  • 6月19日 フランス公使ド・ベルクールと面会。
  • 9月17日 フランス公使ド・ベルクール付き従僕傷害事件。フランス公使付きの従僕が2人の日本人の武士に襲われ、右腕を斬られる。フランス公使館には護衛に当たる日本人がいたが、止めようとしなかったという。
  • 9月17日 フランス公使ド・ベルクール付き従僕傷害事件。フランス公使付きの従僕が2人の日本人の武士に襲われ、右腕を斬られる。フランス公使館には護衛に当たる日本人がいたが、止めようとしなかったという。
  • 12月4日 ヘンリー・ヒュースケン殺害事件。アメリカ公使タウンゼント・ハリス付きの秘書兼通訳ヘンリー・ヒュースケンは有能な通訳であったが、薩摩藩士、伊牟田尚平、樋渡八兵衛などに襲われ、翌日の12月5日に死亡した。江戸幕府はヒュースケンの母に1万ドルの弔慰金を支払った。
  • 12月14日 プロシアと修好通商条約を締結。

 諸外国との交渉、ポルトガルやプロシアとの修好通商条約の締結、そして、攘夷派による襲撃事件の続発とその処理。
 外交、内政ともに多難を極めたが、信正は全力を傾注して、その対応に当たりました。

●アメリカ公使 タウンゼント・ハリス (画像:タウンゼント・ハリス肖像と署名(国際日本文化センター所蔵))
信正の老中時代、信正が最も信頼を寄せ、交渉をしていたのはアメリカ公使のハリスだった。
 

■第一次東禅寺事件

 信正が江戸幕府の老中を務めていた文久元(1861)年5月28日、第一次東禅寺事件が起きました。
 水戸藩の浪士14人がイギリスの仮公使館となっていた東禅寺に侵入し、イギリス公使オールコックなどを襲撃したのです。オールコックは難を逃れましたが、襲撃した者たちは仮公使館を警備していた幕府の旗本や郡山藩士、西尾藩士などと争い、双方に死傷者が出ました。
事件後、オールコックは幕府に抗議し、文久2(1862)年2月16日、イギリス軍隊の仮公使館駐屯、日本による仮公使館警備の強化、さらには賠償金1万ドルを支払うことで和解が成立しました。また、この後、イギリスの軍艦が横浜に常駐するようにもなりました。
 いろいろな意味で、この第一次東禅寺事件は幕末の外交史上、大きな転換点になりました。
 

■信正の人物像 

 安藤信正は江戸幕府の老中を務め、アメリカやイギリス、フランスなど諸外国との外交交渉の場でも、その力量を発揮しました。
 この頃の信正の仕事ぶりや人物像については、信正などとともに外交の仕事に当たった田辺太一や福地源一郎が次のような記録を書き残しています。

--------------------------------------------------
「ただ自己の聡明をもて、当然の情と理とに照して、これが応答をなし、加ふるに機敏の才、応変に妙なりしかば、一時、外国公使も賛称して措かず」
(田辺太一『幕末外交談』)

「其剛毅にして果断なると、其機敏にして神速なるには、各国公使も感服して畏敬を表したりき」
(福地源一郎『懐住事談・附新聞紙実歴』)
--------------------------------------------------

 田辺や福地の文章のなかにある「聡明」、「情と理とに照らす」、「機敏の才、応変に妙」、「剛毅にして果断」、「機敏にして神速」といった言葉からは、信正の類まれな能力の高さや仕事ぶり、さらには性格などを窺い知ることができます。
 

 ■公武合体策・皇女和宮の降嫁

 孝明天皇の妹宮、和宮親子内親王と江戸幕府の14代将軍、徳川家茂とを結婚させようという動きは、井伊直弼が幕府の大老を務めていた頃からありましたが、幕府が正式に結婚の申し入れをしたのは、直弼が桜田門外の変で絶命した直後の万延元(1860)年4月のことでした。
 孝明天皇は、すでに、和宮が6歳の時に有栖川宮熾仁親王と婚約していたことなどを理由に反対しましたが、数度にわたる幕府からの要請を受け、和宮と家茂の結婚を応諾しました。
 翌年の文政元(1861)年10月、和宮は京都を発ち、11月には江戸に到着し、文政2(1862)年2月11日には、将軍、家茂との婚儀が行われました。
 このような動きのなかで、直弼の死後、和宮の降嫁を精力的に押し進めた幕府老中、安藤信正は、文政2年1月15日、江戸城の坂下門外で水戸藩浪士などの襲撃を受けたのです。
 和宮降嫁に関する動きを年表にまとめると、次のようになります。

 安政7、万延元(1860)年
  3月3日 桜田門外の変。江戸幕府大老、井伊直弼死去。
 文久元(1861)年
  10月20日 孝明天皇の妹宮、和宮親子内親王、京都を出発。
  11月15日 和宮、江戸に到着。
  11月21日 岩倉具視ら、安藤信正らに面会。
  12月11日 和宮、江戸城大奥に入る。
 文久2(1862)年
  1月15日 坂下門外の変、信正、受傷する。
  2月11日 和宮と江戸幕府14代将軍、徳川家茂が結婚。
 

■坂下門外の変後の信正

 坂下門外の変の後、信正の身のまわりに起きたできごとをまとめると、次のようになります。

 文久2(1862)年
  1月15日 坂下門外の変、信正が傷を負う。
  4月14日 信正、江戸幕府の老中を御役御免になる。
  8月16日 隠居、謹慎。実子、鏻之助(信民)が家督を継ぎ、磐城平藩主となる。
  11月20日 信正、永蟄居となる。
 文久3(1863)年
  8月10日 鏻之助(信民)、死去。
  10月2日 信勇(内藤理三郎)が養子に入り、磐城平藩主になる。 

 坂下門外の変の後、信正は実子、信民に磐城平藩の藩主の座を譲りましたが、その信民は幼くして亡くなってしまいます。その後、信正は親戚筋の信勇(内藤理三郎)を養子に迎え、磐城平藩の藩主の座に据えました。
 自分自身の老中失脚、そして、実の息子の死と、この時期、信正は大きな不幸に見舞われました。
 そして、この後、信正は戊辰戦争という歴史の大きな荒波を迎えることとなるのです。
 

■新島襄が見た幕末の磐城平

12 信正が傷を負った坂下門外の変から2年後、そして、戊辰戦争の4年前に当たる元治元(1864)年、後に同志社英学校(現・同志社大学)を創設した新島襄(1843~1890年)が、江戸から函館に向かう航海の途中、いわきの地を訪れています。
 新島はその際に、いわきの地で見聞したことを『函楯紀行』という紀行文のなかに詳細に書き残しています。その内容を抜粋して、以下に紹介します。当時の磐城平の様子や人々の暮らしぶりがよくわかります。

  • 士人、及、足軽等之戸口、凡六百餘。
  • 侯の高五万石なりしが、今は減省せられし故、甚困窮之由にて、家臣には一統面扶持、且、高禄なる者には米五十俵の代料に十両賜わる由。然し、男児十五歳以上に相成ば、稽古料として、一人扶持被賜。但、二、三男に於てもしかり。
  • 上下困窮いたし、家臣一統、傘を張り、生計を為す由。城中、竹多く、城外、紙多し。宜なり、傘を張り、内職となす。
  • 有志之士、強て、からかさを張り、合薬等を調へ、時々、城外に出て、大砲の町打いたす由。嗚呼、士之心中、賞すへきに堪へたり。又、憐むへきに堪たり。
  • 城下の町は数多有れ共、本通と称する者、五町なり。且、戸口は凡五、六百之由。舎屋寥々、歎すへきに堪へたり。
  • 城下近傍の上田の租税は凡十分の六、中田は十分の四、辺鄙に至りては凡十分の三、或、二に至る。但し、侯の貧窮の割にしては別段、下民の膏油をしほらさる由。
  • 産物は石炭、染藍、岩城紙、且、先條云ふ所の傘等なり。
  • 海濵の者、多くは漁猟を以、業と為す。鯛、王餘魚、比目魚、魴鮄の類、多し。且、鰹抔、時々、沢山あれど、當節は絶てなし。但、漁猟の運上は魚之多少に順し、又、多少ある由。
  • 海邉に比目魚、魴鮄等を乾す事、甚し。是れ干物になし、四方へ運する由。

(画像:新島襄肖像 (国立国会図書館ウェブサイトよりより転載))
 

■安藤信勇が磐城平藩主に

 安藤信正は文久2(1862)1月15日、江戸城の坂下門外で、水戸藩士などに襲われ、傷を負い、その後、老中の座を去り、隠居、謹慎の身となりました。信正のあとを継ぎ、新たな磐城平藩主になったのは信正の実子、信民でしたが、信民は翌年、幼くして亡くなってしまいました。
 その後、文久3(1863)年10月2日、養子に入った信勇(内藤理三郎)が磐城平藩主に就任しました。
 

■安藤信勇、京都へ

 そして、5年後の慶応4(1868)年1月には、京都で戊辰戦争が始まりますが、その際、信正は隠居の身、そして、信勇が磐城平藩主を務めていました。
 戊辰戦争が始まって、ひと月後の慶応4年2月下旬、信勇は朝廷に恭順(新政府軍に味方すること)の意を表明するため、江戸を出発し、京都に向かいました。
 一方、隠居の身となった信正は、慶応4年3月5日、磐城平に向かうため、江戸を出発しました。
この時点において、磐城平藩は新政府軍に恭順の立場を取っていましたが、その後、立場に変化が生じ、旧江戸幕府、奥羽越列藩同盟軍の一員として、戊辰戦争を戦うことになるのです。
 

■輪王寺宮来臨

 輪王寺宮(北白川宮能久親王。「日光宮」とも呼ばれた)は慶応4(1868)年5月15日、旧江戸幕府の勢力である彰義隊とともに、上野の山に立て籠もり、新政府軍と戦いました。しかし、敗れ、逃げ落ち、羽田で、徳川家の船、長鯨丸に乗り、北に逃れ、5月28日、北茨城の平潟に上陸しました。
 平潟上陸後、輪王寺宮は泉に1泊し、5月29日には磐城平に入り、その夜は飯野八幡宮の宮司宅に宿泊しました。
 その宿所を安藤信正が訪ねています。そして、その時の前後の様子や面会の様子などを磐城平藩の藩士、味岡礼質(重右衛門)が『戊辰私記』(明治36(1903)年刊)に次のように書いています。

--------------------------------------------------
 平潟港へ日光宮御上陸、御附属、鈴木安芸守氏以下十六名随行シ、其夜ハ泉ノ館ニ、翌晦日ハ平ニ着御アツテ、飯野八幡神主、飯野盛容方ヘ御止宿。其翌月朔日、磐城三藩ヘ警衛ヲ命セラレ、会津若松ヘ御出発相成リ、我カ藩士ハ村上六郎氏外、数名、供奉警衛セリ。
--------------------------------------------------

 これを現代的な表現に改めると、次のようになります。

 慶応4年5月28日、日光(輪王寺)宮が平潟港に上陸された。鈴木安芸守以下16名が付き従っていた。その日の晩は泉に宿泊し、5月29日には磐城平に着き、飯野八幡宮の宮司、飯野盛容の屋敷に宿泊した。6月1日、磐城平藩、湯長谷藩、泉藩の磐城3藩が警護を命じられ、日光(輪王寺)宮は会津若松に向け、出発された。磐城平藩では村上六郎など、数名が供をし、警護に当たった。

 また、味岡は『戊辰私記』に次のようにも書いています。

--------------------------------------------------
 日光宮様御旅館ヘ、老公、御機嫌伺トシテ、御菓子一折、献上、拝謁後、御附属、鈴木安芸守氏ヨリ、我カ服部庄太左衛門氏ヘ手続ヲ求メ、急遽ノ御出発ニテ、御旅費、其外ノ品々、御欠乏ノ旨、内談アリ。服部氏ヨリ、老公、幷、執政ヘ具申シ、老公ヨリ、金五百両外、二百両、及ヒ、刀剣、衣類、若干ヲ献納相成リタル由。
--------------------------------------------------

 これを現代的な表現に改めると、次のようになります。

 日光(輪王寺)宮様の宿所を、老公、安藤信正が訪ね、菓子一折を献上し、拝謁した。その後、随行の鈴木安芸守から、服部庄太左衛門に対し、内々に話があった。話の内容は、急な出立だったため、金銭をはじめ、さまざまなものが欠乏しているというものだった。その話は服部から信正や執政に伝えられた。信正は金銭など七百両と刀剣、衣類を献上したということだった。

 これらの記述からは、この時点において、磐城平藩が旧江戸幕府、奥羽越列藩同盟軍に加担する立場にあったことがうかがえます。
 

 ■戊辰戦争「第2次磐城平の戦い」での信正

15 戊辰戦争の間、磐城平城は3回にわたって、新政府軍からの攻撃を受けました。
 1回目は慶応4(1868)年6月29日、第2回目は7月1日、そして、3回目が7月13日です。
 1回目の戦い(第1次磐城平の戦い)では、佐土原藩と岡山藩の部隊が尼子橋の南側まで押し寄せ、砲撃戦、銃撃戦が行われましたが、この日の戦いは日没のため、引き分けとなりました。
 そして、2回目の戦い(第2次磐城平の戦い)では、谷川瀬や新川町などに新政府軍の薩摩藩や大村藩の部隊が押し寄せ、激しい戦いが行われましたが、銃弾不足に陥った新政府軍が撤退し、磐城平藩など奥羽越列藩同盟軍が勝利をおさめました。
 実は、この日の戦いの様子を記した記録に次のようなものがあります。

--------------------------------------------------
(米沢藩 江口縫殿右衛門の部隊の)先手頭某(山吉源右衛門)、百四十人餘ヲ引率、郷戸口ヨリ来リ加ル。城中、是ニ力ヲ得テ、諸口へ兵ヲ賦リ、城外ノ民屋ヨリ畳ヲ持出シ、楯トナシ、其陰ニ篝ヲ焚キ、城主、安藤鶴翁、櫓ニ登テ、夥ク旗指物ヲ建竝、大軍籠城ノ體ニ虚勢ヲ張テ、防戦ノ用意セリ。(「仙台藩記」(『復古外記 平潟口戦記 第一』)
--------------------------------------------------

 これを現代的な表現に改めると、次のようになります。

 米沢藩の大隊長、江口縫右衛門が率いる部隊の先遣隊で、隊長、山吉源右衛門が率いる部隊140人ほどが三和の合戸から磐城平城に入った。山吉が率いる米沢藩の援軍が来たことで、磐城平藩などの者たちは大いに気合いが入った。新政府軍が攻めて来そうなところの守りを固め、また、城外の町家から畳を持ち出し、それを楯の代わりにし、その後ろにかがり火を焚くなどして、敵の来襲に備えた。城主、安藤鶴翁(信正)は櫓(やぐら)に登り、たくさんの旗指物を立て並べ、大軍が城に籠っているように見せかけ、敵に備えた。

 敵の来襲に備え、信正自らが櫓に登り、多くの旗指物を立て、大軍が城に籠っているかのように見せかけたとあるが、本当にこのようなことをしたのだろうか?

(写真:磐城平藩主 安藤信正公生誕200年記念 復活一夜城(磐城平城本丸跡地))
 

 ■戊辰戦争「第3次磐城平の戦い」直前の信正

16 戊辰戦争の間、磐城平城は3回にわたって、新政府軍からの攻撃を受けました。1回目は慶応4(1868)年6月29日、第2回目は翌日の7月1日、そして、3回目が7月13日で、この日の戦いで磐城平城は落城します。
 この7月13日の直前、7月11日か、12日と思われますが、安藤信正は身近に仕える磐城平藩士、中村茂平と言葉を交わします。その内容を中村が書き残しており、それは次のようなものになります。

-------------------------------------------------
七月十三日、御至急の節、米藩、四ツ倉浜にあり、援兵も不致。其不審は御開城、一、両日前、米藩大隊頭、江口縫右衛門、平為援兵、合戸通りにて、御城下、裏手を通り貫け、四ツ倉浜へ着陣。兼て、平へ出張罷在候同藩の者、壱人も不残、急速、呼寄候に付、在町にては別て力を失ひ候
(中略)
兼て、御隠居様、御不審に被思召候哉、縫右衛門援兵に来りしは余り遠く控候也。此儀、如何と御意有之。私、申上候には、米藩は義を重んじ候故、必、約を違ふ間敷と申候処、果て、御隠居様如御意、違約仕、誠以奉恐入候次第に御座候。
-------------------------------------------------

 磐城平城に拠点を置いていた奥羽越列藩同盟軍を支援するため、7月11日と12日の2日間にわたり、米沢藩の大隊長、江口縫殿右衛門が率いる大部隊がいわきにやって来ました。しかし、江口は磐城平城には入らず、城の北側を抜けて、四倉に向かい、そこに陣を置きました。また、それ以前に、いわきに援軍に来ていて、磐城平城にいた米沢藩の部隊も全て、四倉に集めてしまいました。
 このような動きに対し、信正は不審を抱きましたが、中村は「米沢藩は義を重んじる藩、御不審は無用と存じます」と答えましたが、結局、7月13日、磐城平城が落城した日、米沢藩は笠間藩に行く手を遮られ、四倉から磐城平に援軍に来ることができなかったのです。

(画像:幕末の磐城平城の八ッ棟櫓(『戊辰私記』(いわき総合図書館所蔵)より)
 

 ■「第3次磐城平の戦い」、信正、城を出る

 戊辰戦争の際、磐城平城は慶応4(1868)年6月29日、7月1日、そして、7月13日と、3回にわたって新政府軍からの攻撃を受けました。そして、3回目の7月13日の際に、磐城平城は落城しました。
 磐城平藩の藩士、中村茂平が書き残した記録「中村茂平書上げ」(『磐城平藩戊辰実戦記 藩士十六人の覚書』)には次のような記述があります。

-------------------------------------------------
 七月十三日、昼八ツ時頃、私、才槌御門外より御城内へ帰りの節、仙府兵隊、何方より逃げ来候哉、土橋の方より御城内迄引続、才槌御門、不明御門もうち捨、参謀、古田山三郎、下参謀、佐藤直之助、氏江進初、御本丸へ逃げ込、右、三人の者、御隠居様へ御目通仕、御立退被遊候様申上、退去いたし候。
-------------------------------------------------

 これを現代的な表現に改めると、次のようになります。

 7月13日の午後2時頃、中村茂平は才槌門から城内に戻った。その時、どこから引き揚げて来たのかはわからないが、仙台藩の部隊が一町目の北、土橋から城内にかけ、列をなしていた。
 才槌門や不明門の守りを離れ、仙台藩の参謀、古田山三郎や下参謀の佐藤直之助、氏家進などが本丸に逃げ込み、御隠居、安藤信正に面会し、「この際、城を立ち退かれるべきです」と進言し、その後、この三人は磐城平城を退去した。

 仙台藩の参謀たちが磐城平城を退去した前後の時間に、信正も城をあとにしたと考えられます。
 

■磐城平藩家老、上坂助太夫に宛てた信正の手紙

 磐城平城は慶応4(1868)年7月13日に落城しました。
 藩士たちの多くは仙台方面へと逃れましたが、その途中、大久や広野、富岡、大熊、浪江などでも、新政府軍との間で激しい戦いが行われました。
 大久や広野での戦いの直後、前線で戦っていた磐城平藩の家老、上坂助太夫に宛てた信正の手紙が残されています。文面は次の通りです。

-------------------------------------------------
長々出張、太儀存候。扨、此程之戦も初宜候得共、終ニ敗北、木戸焼払、冨岡迄引揚候趣、甚残念。畢竟、手配り不行届、并、逃候者も有之故之事ニ候。此姿ニ而者、中々押出し候義ニ者難相成ニ付、殆心痛致し居候。依之一策心付候間、絵図、廉書ニ而申入候間、可然と存候ハバ、軍議へ参り、諸隊長江可申談候。尤、自分心配いたし、如此申越候趣申聞、絵図、書面等差出候而も不苦候。尤、夫々諸隊参謀など、如才ハ有之間敷候得共、心痛之余り心付候廉、隠居より申越候旨申聞候而宜候。

一、米沢、陸軍隊者格別之働之趣ニ候得共、仙、相等、兎角、逃ケ候趣ニ付、甚当惑。此手配りニ而も、逃ケ候者有之候而者、必利も難斗候得共、逃ケ候者無之候ハバ、必利ニ而、広野迄も押し候事ニ可相成と存候。

一、先方より討出ヲ不待、此方より追撃不致候而者、いつも敵方用意整、押参り候事故、後手ニ相成候間、明日ニも右之手続キニ而押出し申度事、其段、能々諸隊ヘ談可申候。

一、平次郎、初太郎ヘ猶申含置候、時宜次第、此両人、軍議所へ同道いたし候而も不苦候。
                     
助太夫江(え)
                (『古文書が語る磐城の戊辰史』)
-------------------------------------------------

 これを現代的な表現に改めると、次のようになります。

 長期にわたる出陣、御苦労である。さて、今回の広野での戦いも、初めはよかったが、ついには負けとなり、木戸宿を焼き払い、富岡まで撤退をしたとのこと、とても残念だ。作戦通りにことが運ばず、また、逃げ出す者がいたことが大きな敗因である。このようなことでは、打って出るようなことは難しく、形勢は極めて厳しい。ところで、作戦を思いついたので、それを絵図に描き、また、それを箇条書きにまとめた書面も作成した。もし、「これはいい作戦だ」と思ったら、軍議にかけ、各隊の隊長にも説明をしてもらいたい。私が心配をし、このようなものを送り届けてきたことを伝え、絵図と書面を軍議の場に提出してもらってもかまわない。各部隊の参謀などの行いに不行き届きや手抜かりがあったというのではない、私が心配のあまり、このようなものを送り届けてきたと、そのように伝えて欲しい。

一、米沢藩や旧江戸幕府の陸軍隊は、格別の活躍を見せたというが、仙台藩と相馬藩の部隊は逃げてばかりいたとのこと、大いに困ったものだ。私が考えた作戦でも、味方が逃げてしまっては勝利することはできない。逃げずに戦えば、必ず勝利し、新政府軍に奪い取られた広野を取り返すこともできるはずだ。

一、新政府軍が攻めて来るのを待つのではなく、こちらから攻めなければならない。新政府軍はいつでも万全の用意をしたうえで、攻めて来るので、こちらは後手を踏んでしまうことになる。私の作戦に基づき、明日にでも打って出ようと、各隊の方々に訴えるべきだ。

一、平次郎と初太郎には、私が思いついた作戦の細かいところまで説明をしてある。場合によっては、この二人を軍議の場に同行させるのもよいだろう。
    上坂助太夫へ

 磐城平城が落城した後も、信正はまだまだ戦いを諦めていなかったことが、この手紙の文面から伝わってきます。
 

 ■信正の名前で降伏状を出す

 戊辰戦争の際の降伏状ですが、磐城平藩は藩主、安藤信勇の名前ではなく、信勇の養父、安藤鶴翁信正の名前で、慶応4(1868)年9月24日、新政府軍の総督府に降伏状を提出しています。その内容は次のようなものになります。

-------------------------------------------------
當三月中、對馬守、上京仕候ニ付、私儀、磐城平ニ罷在候處、奥羽同盟之儀ニ付、名分順逆ヲ誤リ、家來共、奉抗官軍、終ニ磐城封土ヲ失ヒ、何共可奉申上様無御座、深奉恐入候。伊達陸奥儀ハ最寄同盟之儀ニ付、一ト先、仙臺表ヘ罷越候處、今般、仙臺、米澤两藩ヨリ、叡慮之趣奉傳承、恐懼至極奉存候。素ヨリ奉抗官軍候存慮ハ、毛頭、無御座候得共、著邑以来、遠境僻地ニ罷在候ニ付、天下之事情モ隔絶仕、恐多モ叡慮之程モ具ニ不奉伺、一時ノ行違ヨリ、終ニ今日之仕儀ニ立至リ候段、退隠之身トハ乍申、指揮不行届故之儀、誠ニ以奉恐入、先非悔悟仕候。隨テ、兵器悉ク差上、於舊領恭順謹愼罷在家來末々迄、屹度、謹愼申付置、奉仰朝裁度候間、御寛典之御處置奉歎願候。右之事件、通路相塞リ候ニ付、對馬守承知不仕候得共、早速、申遣候ハゝ、恐懼至極可奉歎願候。此上ハ幾重ニモ御寛大之御所置、偏ニ奉歎願候。誠恐誠惶謹言。
  九月     安藤鶴翁信正
-------------------------------------------------

 適宜、言葉を補いながら、これを現代的な表現に改めると、次のようになります。

 本年三月、磐城平藩の藩主、安藤対馬守信勇は京都に上りました。なお、その折り、磐城平藩の先々代の藩主で、隠居の安藤信正は磐城平におりました。
 その後、奥羽越列藩同盟が結ばれ、私は大義を見失い、何に従うべきかを誤り、家来たちは新 政府軍と戦い、ついには領地を失ってしまいました。弁解の余地はなく、ただただ恐れ入っております。
 その後、奥羽越列藩同盟の関わりで、仙台におりましたが、仙台藩、米沢藩の両藩から、降伏の話を聞き、今回、恐れ多くも書状を以て、降伏を願い出ることとなりました。
もとより、私は新政府軍と戦う意思は全くありませんでした。先般、江戸から在地、磐城平に参りましたが、磐城平の地は辺境、遠隔の地で、天下の情勢や朝廷の意向などを知ることができませんでした。そのため、一時の行き違いにより、新政府に抗ってしまいました。私は藩主を退き、隠居の身ではありますが、家来への指揮が行き届かず、大いに悔い改めているところです。
兵器は全て差し出し、全ての家来ともども、恭順、謹慎し、朝廷の御裁断をお受けいたします。寛大な御裁断を賜ることができますよう、お願い申し上げます。
 また、この度の降伏につきましては、行き来ができないため、信勇には、まだ、伝えておりませんが、早々に申し伝え、承知をさせます。
 寛大な御裁断を賜りますよう、幾重にも、お願いを申し上げます。
  九月     安藤鶴翁信正

このページに関するお問い合わせ先

総合政策部 広報広聴課

電話番号: 0246-22-7402 ファクス: 0246-22-7469

このページを見ている人はこんなページも見ています

    このページに関するアンケート

    このページの情報は役に立ちましたか?