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『四倉町本町通り』(平成30年3月14日市公式Facebook投稿)

問い合わせ番号:15209-8499-1459 更新日:2018年3月14日

いわきの『今むがし』Vol.90

大正時代の四倉町本町通り・現在の字東、西四丁目‐四倉銀行の建物が見えます‐(大正時代末期、『四倉の歴史と伝説』から引用)

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 四倉は、文正(ぶんせい)年間(1466-67)から岩城家の重臣・四倉家の本拠地となった所で、やがて四倉が地名の由来として定着したと伝えられ、麓には町場が設置されていたものと考えられます。
 江戸時代には浜街道の宿場が置かれるとともに、浜では江戸で消費される廻米(かいまい・年貢米)の積み出しが行われました。江戸時代当初には磐城平藩に属していましたが、延享(えんきょう)4(1747)年以降は幕府直轄の小名浜代官所支配管轄となりました。街の長さは、正徳(しょうとく)元年(1711)年の『正徳元卯七月諸品覚書』(しょひんおぼえがき)によると13町(ちょう)4間(けん)・約1,420mに及びました。これは小名浜と同じ大きさでした。
 特に、境川以北の新町通り一帯は江戸時代には「米川(河)岸」(こめがし)と呼ばれ、付近は周辺の村々から運ばれる廻米を格納する廻船(かいせん)問屋の倉庫がいくつも並び、街は繁栄を極めました。慶安(けいあん)3(1650)年に南町が本町と仲町に二分され、新町は明暦(めいれき)2(1656)年に誕生しました。
 明治時代に入ると宿場機能は衰えましたが、漁業は漁法の近代化や船の大型化によりカツオ、イワシなどの水揚げでにぎわい、富を蓄えた漁業家や水産加工業者がひしめき合っていました。
 明治22(1889)年4月の「明治の大合併」では、町制を果たしました。明治20(1887)年には441戸、2,423人を有し、合併基準の300~500戸を満たしていたため他周辺村との合併はなく、単独の町制でした。
 明治30(1897)年8月には日本鉄道磐城線(現常磐線)が通じ、市街地南西の街はずれに駅が設置され、町名は四倉であるにもかかわらず、「四ツ倉」と表記されました。四倉を、「しくら」あるいは「よくら」と呼ばれる懸念を避けるため「ツ」を間に入れたという説がありますが、明らかではありません。
 明治40(1907)年、駅西に磐城セメント(株)四倉工場が誘致されて以降、玉山鉱山で産出する石灰石などの原料を使ったセメント製造を基幹産業として、さらに漁業の隆盛により、市街地は次第に駅のある南方へも発展し、本町通りには銀行や事業所、商店が軒を連ねて集客しました。当時、7月と12月には「日用品市」が開かれ、近郷近在から集まった人で一層のにぎわいをみせました。
 特に、大正9(1920)年に創設された四倉銀行が、同15(1926)年、字仲町(現東四丁目)の本町通りに建てた銀行は、鉄筋コンクリート2階建ての洋風様式建造物で、周囲の街並みのなかで異彩を放ちました。

現在の字東四丁目の旧四倉銀行跡周辺(平成30(2018)年1月、いわき市撮影)

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 四倉市街地および周辺の区域は昭和17(1942)年8月、「都市計画法」の適用を受けましたが、街割りは漁村形態の域を出ず、たとえば字名にしても、境川河口域に字蜆川(しじみがわ)が付けられる一方で、境川=蜆川の印象が強く、蜆川が地名を指すか川名を指すか、紛らわしいものでした。
 このようなことから、昭和24(1949)年、四倉町はまず国土調査事業の手法により、字本町、字仲町、字新町などを設け、町割りを整理しました。
 次いで、土地区画整理事業の手法で四倉市街地を貫く浜街道、転じて一般国道6号線(現市道西四丁目・西二丁目線)西側を対象として整備を図り、昭和34(1959)年4月に事業が完了しました。これに伴い、土地区画整理事業区域が「四倉町字一~字五丁目」に区割りされました。
 しかし、国道西側が整備されると、東側の不備が顕著になり、市街地全体の整合を取る必要性が提起されました。
 このことから、国土調査の手法により、道路東側においても字名改称が行われました。これによって、字名は国道を境に東西に分けられ、これまでの一~四丁目には「西」が付さましれた。また、国土調査事業が施行された区域では「東」が付され一~四丁目が割り振られました。
 こうして、長年地元地区民に親しまれた字名である、本町、仲町などが消えていきました。  
 長い間、町を支えてきた基幹産業のうち、漁業については遠洋漁業が国際的な海域規制により衰退、またセメント製造業についても工場施設の老朽化と会社の合理化により撤退し、かつての活力を失い、四倉は周辺工場や平への通勤圏に組み込まれていきました。また、昭和38(1963)年に新しい国道6号(昭和54年に4車線化)が市街地東側の海岸沿いに開通すると、本町通りを中心とする四倉市街はいやおうなしに「クルマ社会」に飲み込まれ郊外化が進み、現在は地元民を中心とする商店街へ変容していきました。
 街のなかで異彩を放っていた四倉銀行は、昭和時代初期の恐慌で昭和3 (1928)年に業務停止、同10 (1935)年に「消滅」しました。その後、商工会、学習塾などに使われ、この間、その意匠の特異性から平成19(2007)年10月には、国の登録有形文化財に登録されました。しかし、東日本大震災で建物が損壊、修復費用が大きく嵩むうえに個人負担となってしまうことから、平成24(2012)年1月に惜しまれながら解体されました。(いわき地域学會 小宅幸一)

その他の写真

四倉銀行概観(大正15年12月、郵便絵はがき)

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 四倉町本町通り(現四丁目)(大正時代末期、『四倉の歴史と傳説』から引用)

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四倉字東、西四丁目・市誕生記念聖火リレー(昭和42年3月、いわき市撮影)

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登録有形文化財に指定された旧四倉銀行の概観(平成22年頃、四倉商工会提供)

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四倉銀行の解体(平成23年12月、小泉屋文庫提供)

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