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『玉山鉄道』(平成30年2月28日市公式Facebook投稿)

更新日:2018年2月28日

いわきの『今むがし』Vol.89

写真1-1(左上) 玉山専用鉄道玉山駅のDB251ディーゼル機関車・玉山字炭釜(昭和56(1981)年4月、須永秀夫氏撮影)
写真2-1(右上) 玉山専用鉄道を玉山に向かって走るディーゼル機関車・戸田字稲荷作(昭和55(1980)年4月、名取紀之氏撮影)
写真3-1(左下) 玉山専用鉄道を四倉に向かって走るDD101ディーゼル機関車・戸田字仲作(昭和56(1981)年4月、須永秀夫氏撮影)
写真4-1(右下) 玉山専用鉄道から分岐する国鉄連絡線・上仁井田字岸前(昭和56(1981)年4月、須永秀夫氏撮影)

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 四倉市街から北西へ約12kmの山間に、近代採掘法による八茎鉱山(合資)が開発されたのは、明治39(1906)年7月のことでした。
 同時期の明治40(1907)年11月に設立された磐城セメント(株)は、八茎地区で古くから採掘されていた銅鉱床の上部に豊富に賦存していた石灰石に着目し、これを原料とするセメント製造工場・四倉工業所(後の四倉工場)を、製品輸送に便利な幹線鉄道である日本鐵鉄道磐城線(現常磐線)四ツ倉駅付近に起業しました。
 まもなく、玉山鉱泉付近を中継地として架空索道~馬車軌道(大正2年に蒸気機関車導入)により八茎鉱山-四倉の輸送体系が確立され、石灰岩はセメント工場へ運ぶ一方、銅は四ツ倉駅を経由して市場に運ばれました。
 その後、八茎鉱山は銅価格の暴落によって大正14(1925)年に休山。磐城セメント(株)は他地区の石灰石や付近の白岩地区から採取する石灰石に頼りながら、生産を継続しました。ちなみに、良質な砂岩層からの玉山石は、建設石材として最適で、東京大学の安田講堂や上野公園の玉垣、銀座ビアホールなどが玉山石をもって充てられました。
 第二次世界大戦後、鉄鉱石や銅の価格が高騰すると、ふたたび八茎鉱山は着目されました。日鉄鉱業(株)は昭和29(1954)年7月に、八茎鉱業所を設置。一方、磐城セメント(株)としても急激な日本経済の回復で、セメントの需要が高まることが予測されたことから、採掘を日鉄鉱業(株)に依頼すれば、これに対応することは可能となったのです。こうして両者の利害が合致しました。
 両者の協議により、ふたたび架空索道と鉄道の組み合わせによる原料輸送をするため、旧軌道を専用鉄道に拡幅するとともに、磐城セメント(株)四倉工場の手前から分岐する、四ツ倉駅までの専用線を設け、日鉄鉱業(株)八茎鉱業所の必要とする銅鉱石、鉄鉱石などを四ツ倉駅に運ぶための便宜を図りました。
 こうして、専用鉄道は磐城セメント(株)の石灰石輸送と日鉄鉱業(株)の原石輸送という二つの役割を担うことになり、昭和33(1958)年11月に竣工し、「玉山専用鉄道」(6.14km)と名付けられました。一方、鉱山と麓の玉山積み込みポケットを結ぶ架空索道も昭和33年8月に竣工しました。
 磐城セメント(株)は、昭和38(1963)年1月、福島セメント(株)および住友石灰工業(株)と合併。同年10月に住友セメント(株)に商号を変更して発足し、ふたたび隆盛期を迎えました。
 専用鉄道の運転管理については、磐城セメント(株)が実施。中間点の戸田字榎坊(えのきぼう)には上下交差するための榎坊停車場を設けました。全線所要時間は約20分、表定速度は18km/時でした。
 

写真1-2(左上) 玉山専用鉄道玉山駅跡(昭和60(1985)年4月、おやけこういち氏撮影)
写真1-3(左中) ゲートボール場として整備中(昭和62(1987)年5月、おやけこういち氏撮影)
写真1-4(左下) 現在の玉山専用鉄道玉山駅跡(平成30(2018)年、いわき市撮影)
写真2-2(中上) 玉山専用鉄道跡をサイクリングロード、市道として整備・戸田字稲荷林(昭和60(1985)年4月、おやけこういち氏撮影)
写真2-3(中下) 現在の玉山専用鉄道跡のサイクリングロード(写真右の舗装道路)・戸田字稲荷作(平成30(2018)年1月、いわき市撮影)
写真3-2(右上) 市道となった玉山専用鉄道跡・戸田字仲作(平成15(2003)年4月、おやけこういち氏撮影)
写真4-2(右下) 玉山専用鉄道連絡線跡・写真右は災害公営住宅・上仁井田字岸前(平成27(2015)年7月、いわき市撮影)
※前述の組写真と呼応しています。(例)写真1-1、1-2、1-3、1-4はほぼ同地点から撮影したもの

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 昭和30年(1955)年から始める高度経済成長は、鉱工業の発展を促しました。
日鉄鉱業(株)が住友セメント(←磐城セメント)(株)に販売した石灰石のピークは、昭和47(1972)年度の87万5,300トンでした。
 隆盛期の昭和40(1965)~50(1975)年頃の運転形態をみると、24時間3交代制。列車は四倉工場と玉山の間で電話連絡をとり、同時に双方から出発して中間の榎坊停留所で交差する形態で、24往復、文字通りピストン輸送を行っていました。
 日鉄鉱業(株)の銅鉱石を中心とする採掘事業も、高度経済成長の波に乗り、昭和30年代には坑内掘り、露天掘り合わせて年産30~50万トンで推移し、昭和40年代以降は60万トン前後の生産量を記録しました。ほかにも、銅鉄鉱(粗鉱)や鉄精鉱、タングステン鉱石などの採掘も盛んに行われました。
 しかし、昭和48(1973)年10月に起こった、第四次中東戦争の勃発に端を発する第一次石油危機は、石油供給削減となってあらわれ、これによって燃料となる重油価格の高騰、建設費の急上昇などの連鎖が引き起こり、非効率な生産を強いられるようになりました。同時に、資源の枯渇が問題視されてきました。
 住友セメント(株)四倉工場は、昭和45(1970)年度にピークとなる71万1,200トンのセメント生産量を記録しましたが、以降、採掘現場が深部に入ったこともあって、コスト高を招き、また、石油危機以降の内需減退によって、生産量が減って慢性的な赤字を抱えるようになりました。加えて、住友セメント(株)四倉工場の場合は、施設の老朽化が問題となりました。四倉工場のようなコストの高い小規模工場の合理化とこれに代わる重点工場生産と臨海工場へのシフトが必至の状況でした。
 こうして、住友セメント(株)四倉工場は、昭和52(1977)年7月に地場産業の四倉化工(株)へ組織転換され、昭和58(1983)年3月に生産休止、同61(1986)年9月に工場閉鎖となりました。
 日鉄鉱業(株)八茎鉱業所も、セメント生産の原料となる石灰石の安定的な供給先を失うことは痛手となり、昭和53(1978)年3月に閉山に追い込まれました。
 専用鉄道は、日鉄鉱業(株)八茎鉱業所が銅鉱石の輸送を停止したことで、第一段階の縮小が図られました。昭和53年以降、専用鉄道のダイヤは3交代から2交代15往復へ減じました。次いで、地場産業となった四倉化工(株)は、昭和57(1982)年、石灰石の供給ルートが変更したことから、専用鉄道による輸送は停止されました。セメント工場の閉鎖を前提とした措置でした。
 その跡地については、昭和58(1983)年10月、住友セメント(株)によって全鉄道敷地がいわき市へ寄付されました。手続き的には、専用鉄道の廃止は昭和60(1985)年3月でした。
 跡地利用については、地元の要望により自転車専用道路や市道など(唯一主要地方道いわき-浪江線を越えたあたりから旧主要地方道小野-四倉線まで盛土帯が見える)へ転換されていて、面影をたどることはできません。
(いわき地域学會 小宅幸一)

その他の写真

地図 玉山専用鉄道、八茎鉱山架空索道〔1.50,000地形図 (昭和52年編集)〕

20180228地図

沿線写真1 玉山専用鉄道玉山駅の駅名標(昭和57年11月、園田正雄氏撮影)

沿線1

沿線写真2 玉山専用鉄道玉山駅のDD101ディーゼル機関車・玉山(昭和54年、須永秀夫氏撮影)

沿線2

沿線写真3-1 玉山専用鉄道の玉山字屋敷前付近を玉山駅に向かって見る(昭和55年4月、名取紀之氏撮影)

沿線3-1

沿線写真3-2 玉山専用鉄道跡の玉山字屋敷前付近(昭和60年4月、おやけこういち氏撮影)

沿線3-2

沿線写真4 玉山専用鉄道の玉山字門馬前付近を玉山に向かって走るディーゼル機関車(昭和55年4月、名取紀之氏撮影)

沿線4

沿線写真5 玉山専用鉄道を走るDD101ディーゼル機関車の運転室から四倉に向かって見る・玉山字柳田付近(昭和54年2月、名取紀之氏撮影)

沿線5

沿線写真6 玉山専用鉄道の玉山字柳田付近を玉山に向かって走るディーゼル機関車を高台から見る(昭和55年4月、名取紀之氏撮影)

沿線6

沿線写真7-1 玉山専用鉄道と交差する旧県道小野-四倉線と袖玉山川に架かる砂子田橋を玉山に向かって見る(昭和55年4月、名取紀之氏撮影)

沿線7-1

沿線写真7-2 玉山専用鉄道の袖玉山川に架かる砂子田橋跡を玉山に向かって見る(昭和60年4月、おやけこういち名氏撮影)

沿線7-2

沿線写真8 玉山専用鉄道の榎坊交換場手前の霞田踏切に差し掛かるディーゼル機関車を運転室から四倉に向かって見る(昭和54年2月、名取紀之氏撮影)

沿線8

沿線写真9 玉山専用鉄道の榎坊交換場を四倉に向かって走るディーゼル機関車と待避する玉山駅行きの機関車(昭和54年2月、名取紀之氏撮影)

沿線9

沿線写真10 玉山専用鉄道の榎坊交換場を出て四倉に向かうDB251ディーゼル機関車(昭和56年4月、須永秀夫氏撮影)

沿線10

沿線写真11 玉山専用鉄道を四倉に向かって走るDD101ディーゼル機関車を仁井田川に架かる進運橋から見る・戸田字仲作付近(昭和55年4月、名取紀之氏撮影)

沿線11

沿線写真12 玉山専用鉄道を玉山に向かって走るディーゼル機関車・戸田字仲作の根渡神社前(昭和55年4月、名取紀之氏撮影)

沿線12

沿線写真13 玉山専用鉄道を四倉に向かって走るDD101ディーゼル機関車・戸田字仲作付近、仁井田川(昭和54年2月、名取紀之氏撮影)

 沿線13

沿線写真14 玉山専用鉄道を四倉に向かって走るDD101ディーゼル機関車・戸田字箒作付近、仁井田川沿いに玉山方向を見る(昭和54年2月、名取紀之氏撮影)

 沿線14

沿線写真15 玉山専用鉄道の専用線分岐点付近(上仁井田字岸前)の道路交差部分を四倉に向かって見る・右国鉄連絡専用線、左四倉工場(昭和56年4月、須永秀夫氏撮影)

沿線15

沿線写真16 玉山専用鉄道の専用線分岐点付近(上仁井田字内城)を住友セメント四倉工場に向かう機関車(昭和55年4月、名取紀之氏撮影)

沿線16

沿線写真17 玉山専用鉄道の左からDD101、DB251、DF103の各ディーゼル機関車・住友セメント四倉工場付近(昭和55年5月2日、須永秀夫氏撮影)

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電話番号: 0246-22-7402 ファクス: 0246-22-7469

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