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『勿来関』(平成29年8月30日市公式Facebook投稿)

問い合わせ番号:15047-4238-8316 更新日:2017年8月30日

いわきの『今むがし』Vol.77

(上)勿来関の石碑(昭和30年代、郵便絵はがき、白鷺会)
(下)勿来関の石碑(昭和40年代、長谷川達雄氏撮影)

20170830-1 「勿来」の語源として、よく言われるのは、「な来そ」の意味です。“波越”に因るという説もありますが、語法に基づく説が有力です。動詞の前後に「な」「そ」を置いて禁止をあらわす、「来るな」、この場合は「夷(い)よ来る勿(なか)れ」です。さえぎる、塞(ふさ)ぐ、という意味の関と同意語であり、関の枕詞(まくらことば)のように用いられるのは最も説得力を持ちそうですが、ではなぜ全国に同じ関がありながら、元々所在した菊多関(きくたのせき)だけが、勿来関の“栄誉”に浴することができたのでしょうか。
 残念ながら、菊多 ⇒ 勿来に至る明確な答えがないのですが、有力な手がかりとして、貞観(じょうがん)8(866)年に鹿島神宮の宮司から、一つの訴えが出されたことが挙げられます。
 嘉祥(かしょう)元(848)年、常陸国司(こくし)の公文書を受け奉幣(ほうへい・神にたてまつる)物を携えて関を通過しようとした鹿島神宮の宮司が、前例がないとして拒絶されたことに怒り、関外の川辺に奉幣物を捨てて帰国しましたが、その後、疫病が流行したので、これを許してほしいというものでした。
 このことが京の都に大きな事件として伝わって、王朝文学を刺激しました。当時、京の人々にとって東国は異世界にも等しく、この事件が東国に対する、ひいては身近な詩歌(しいか)の枕詞として、「な来そ」の意味と土地のイメージが重なり、創作意欲が掻き立てられたことは十分に想像できます。
 菊多関の名は、9世紀以降、文書記録から姿を消していることから、実質的な役割を終えたものと考えられます。その場所は現在に継承されませんでした。

(上)勿来関詩歌案内図(昭和50年頃、佐藤信夫氏撮影)
(下)「勿来の碑ご案内」(平成25年4月撮影)

20170830-3 しかし、詩歌(しいか)の世界で、「関」の役目を終えていませんでした。「なこそ」が「来る勿れ」の勿来関として一人歩きして、詩歌としていくつも詠まれるようになりますが、この時点では、必ずしも菊多関とは限っていませんでした。
 この状況を場所としても決定付けたのは、磐城平藩主二代目・内藤忠興(ただおき)でした。承応(じょうおう)年間(1652-55)、藩内の飛び地であった、現在の関跡とされる一帯を関と見立てたのです。この場所は海岸を見下ろすことのできる風光明媚(ふうこうめいび)な地であることも手伝ってここを関と定め、サクラを植樹しました。
 次いで、磐城平藩主三代目・内藤義概(よしむね)が儒学者・葛山為篤(かつらやまためあつ)に命じて寛文(かんぶん)10(1670)年に『磐城風土記(ふどき)』を創らせました。ここに「奈古曾関(なこそのせき)」の文字が登場するのです。この後も、内藤家の系譜は文学に秀でた人物を輩出しており、関の存在はさらに広く行き渡っていったものと考えられます。
 以後、奈古曾関、転じて勿来関(なこそのせき)を地域の“顔”に仕立てたのは、地域住民の力に負うところによるもので、これを行政などが支援しました。
 明治27(1894)年には、関の改修を実施するため、関田地区民が発起人となり、磐城、磐前、菊多3郡(明治29年に3郡が統合して石城郡)と茨城県多賀郡に寄付金を呼びかけています。明治30(1897)年2月、日本鐵道磐城線(現常磐線)が開通し、駅が関跡と呼ばれる場所から等間隔にある、茨城県多賀郡関本村と福島県石城郡窪田村大字関田に開設されることになりましたが、関田地区民はいち早く「勿来」を付すことを関係者に要望、これが付されることになりました。
 このようにして「勿来」と「勿来関」の知名度が高まり、勿来海岸とともに、有名になっていきました。

勿来関の石碑(平成25年4月撮影)

20170830-2 勿来関の存在が広く知られるようになると、遠方から関を訪れる人が増えていきます。明治時代以降も斎藤茂吉、長塚節(たかし)、角川源義(げんよし)などがこの地を訪れ、多くの詩歌が詠まれました。
 地域住民も行政も、「勿来関」周辺の整備を積極的に推し進めます。今日で言う「まちづくり」でしょうか。
 大正13(1924)年には、昭和天皇の御成婚を記念してマツを植栽、さらには大正14(1925)年7月には、勿来関顕彰碑が建立され、併せて同年5月の町制施行に際しては、窪田村から勿来町へ改称する、というように「勿来」を全面的に押し出すようになります。
 江戸時代に植樹されたサクラは、後年も何度か地元民によって植樹の輪となって広げられ、大正14年1月には、青年団などによってソメイヨシノ、ヤマザクラなど約1,000本が植栽され、現在のサクラに満ちた公園の基礎となりました。同時に、駅から関に至る道路の大改修が青年団などの手によって行われました。

勿来関北口では、源義家像、冠木門、義家の石碑が訪れる人を出迎え(平成24年4月、いわきジャーナル撮影)

20170830-4-2 昭和26(1951)年1月には、勿来の関公園や勿来海岸などが県立勿来自然公園に指定され、景観優れた地としも名を高めました。
 また、マツの古木も多く、春ともなると、サクラとの妙を鮮やかに見せています。現在は地元の「県立勿来自然公園を守る会」がマツの菰(こも)巻き、下草刈りなどの活動を行い、自然景観を維持しています。
 数ある詩歌のうちで、最も有名になったのは、源(みなもとの)義家の「吹く風をなこその関と思へども みちもせに散る山桜かな」です。勿来の関公園の北側には源義家をイメージした騎馬像が、昭和61(1986)年に建てられました。

勿来の関公園の桜・吹風殿全景(平成20年4月、いわき市撮影)

20170830-9 関周辺のハード整備も進みました。昭和63(1988)年7月には「勿来関文学歴史館」が建設され、平成13(2001)年3月にリニューアルされました。また平成18(2006)年4月には公園の再整備事業の一環として、体験学習を備えた、京の寝殿(しんでん)造り風の建物「吹風殿(すいふうでん)」がオープンしました。
 このように、関存在の有無はともかく、関を活かした、住民主体のイベントと行政の「勿来の関公園」整備では、長い間、住民と行政が連携したまちづくりが実践されています。
 (いわき地域学會 小宅幸一)

 

 その他の写真

関跡と松「淡色版・勿来名所」(昭和時代初期、郵便絵はがき、佐々木商店)

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関上からの眺め「勿来名勝(水色着色)」(昭和15年頃、郵便絵はがき)

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勿来関の北入口(昭和41年、いわき市所蔵)

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勿来関(昭和42年1月、いわき市撮影)

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勿来関「いわき七浜」(昭和50年代、郵便絵はがき)

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 勿来関文学歴史館前のサクラ(平成26年4月、いわき市撮影)

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