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『江田駅』(平成28年11月2日市公式Facebook投稿)

登録日:2016年11月2日

【いわきの『今むがし』 Vol.58】

行楽客を乗せ、江田信号場に停車 〔昭和30年代 国府田英二氏提供〕

01 江田信号場に停車する客車と遠足の高萩市小学生(昭和30年代、国府田英二氏提供) 市内には、かつて信号場扱いとなっていた駅が二つありました。その一つが現在の磐越東線江田駅です。
 
磐越東線の建設は郡山側と平(現いわき)側からそれぞれ始まり、大正4(1915)7月までには、小野新町-小川郷を除く区間が開通しました。このうち、高低差があり夏井川渓谷に沿う川前-小川郷の16km区間の工事は難航を極めました。大正6(1917)10月の全線開通時、小川郷駅と川前駅のちょうど真ん中に江田信号所(大正11年に「信号場」)が設置されました。
 
信号場は分岐器(ポイント)や信号設備が設けられている鉄道路線のうち、運転扱いは行われるが、旅客や貨物の取り扱いが行われない停車場をさします。信号場として取り扱われる理由としては、(1)隣駅が遠すぎること、(2)利用客が少ないこと、(3)鉄道施設用地の確保が難しいこと、(4)その他急勾配など運行上の理由があること、などが挙げられました。
 江田の場合、小川郷と川前の駅間が長いことが理由で、特に平から川前へ向かう場合、上り坂が続き、機関車の故障や不慮の事故に備える必要があり、信号場施設が設けられたもので、併せて待避線も設けられました。
 ある蒸気機関車機関士の手記が残っています。
 「距離の長さ、勾配のきつさ、列車の重さ、線路条件のすべてで磐越東線は大変な苦労でした。なかでも平(現いわき)からの下り列車(の上り坂)はきつかった。それに比べれば、磐越西線では中山越え(難所)はありましたが、距離が短いですからね」
 貨物輸送が盛んだった昭和40年代まで、蒸気機関車はセメントや粘土、鮮魚などの貨車を牽引して、ロープを手繰るように急カーブと急坂が連続する勾配をよじのぼっていきました。特に、落ち葉の季節や貨車からこぼれた鮮魚の油は車輪空転を引き起こし、運転士泣かせの区間だったといいます。
 12(1923)12月開会の上小川村議会では、江田周辺には人家があり、乗降扱いをすれば江田周辺に住む住民の利便性が高まるだけでなく、春の岩ツツジや秋の紅葉時の観光面においても、便宜を図ることができるとして、駅昇格を視野に、信号場付近の2,000坪を鉄道省に寄付することを決議しました。しかし、駅に昇格させるためには駅をスイッチバック形態にしなければならず、鉄道省の試算によると30万円の経費がかかるとされ、容易に進ちょくしないことが伝えられ、地元民を落胆させました。
 それでも、昭5(1930)から紅葉シーズンに限り臨時停車するようになり、昭9(1934)年のシーズンには約4,000人の人出でにぎわいました。特に、この年10月には、平や高萩などからの団体客や一般客のために、高萩-江田で臨時列車を走らせるほどでした。
 戦時色が濃くなり、この措置は取られなくなり、また駅昇格の運動も下火となりましたが、昭和20(1945)年に戦争が終了すると、ふたたび信号場から駅への格上げについて、上小川村や周辺の関係者・住民が要望していきます。この結果、昭和23(1948)10月、一部列車について、乗降客のみを取り扱うことのできる江田仮乗降場(実際は営業キロを設定しない臨時駅扱い)として開業することができました。
 昭和38(1963)7月からはふたたび信号場に変更されましたが、待合室が建設され、引き続き、旅客乗降扱いが継続されました。 

紅葉シーズン以外は静かな江田駅 (平成27(2015)8月 いわき市撮影〕 

02 紅葉シーズン以外は静かな江田駅(平成27年8月、いわき市撮影) 昭和42(1967)からは全列車が停車し、地域住民にとっても観光客にとっても利便性は増しました。昭和20年代から40年代にかけて、紅葉シーズンには臨時列車が増便されて、それでも平駅では乗客全員を飲み込めないほどのにぎわいを見せました。
 昭和36(1961)9月の新聞には「平駅午前916分発の川前行夏井川行楽列車では40人があぶれた」と報じられていました。この人気ぶりに、仙台鉄道管理局では、この年の10月、観光客サービスのため、江田-川前の間に位置する夏井川渓谷に近い牛小川地内に駅員を配置し、仮停車場(乗降口にはしごを当てただけのもの)を設けて便宜を図るほどでした。
 こうしたにぎわいに江田駅昇格をめざす関係者にも力が入ります。行楽列車では割引制度を導入したことから、さほど感じなかったのですが、住民にとって不便さは解消できていませんでした。なぜならば、正式な駅でないことから、運賃は平駅から来る場合は「江田」の先の「川前」まで切符を買わなければならない、逆に郡山から来る場合は「小川郷」までの運賃を取られる、という不都合が生じていたからです。乗り降り場近くの発車時刻表をみても「頃」という文字が付記されていました。
 関係者は住民の利便性だけでなく、観光の振興という観点からも駅昇格運動を継続しましたが、磐越東線は小川郷駅以南が水戸鉄道管理局管内、川前駅以北は仙台鉄道管理局管内で、いわば江田信号場は谷間的な存在で、管轄は「仙台」に属していましたから、市にとってはとかく関係性が薄く、運動は困難を極めました。市一丸となった運動を内外に示すため、昭49(1974)10月開会の市議会においては、信号場から駅への昇格について関係機関に意見書提出することを採択しました。
 これら運動が功を奏して、昭53(1978)8月から“準駅”としての扱いとして、通勤・通学定期券に限り、運賃を同信号場から起算した料金で発売することになりました。
 当時、全国の信号場(仮乗降場を除く)13か所で、信号場をはさむ駅間距離は多くが78km程ですが、江田の場合は16kmと長いことから、全国でも初めてのケースとなりました。
 昭和59(1984)12月、ふたたび信号場から仮乗降場へ変更されましたが、乗降扱いに変化はありませんでした。
 念願だった信号場から駅への昇格は、思わぬかたちで実現しました。鉄道が自動車にとってかわられるなか、国鉄(国有鉄道)における赤字体質の抜本的な脱却が論議された結果、国鉄は分割民営化され、昭和62(1987)4月に東日本旅客鉄道株式会社JR東日本)が発足すると同時に、江田も「駅」に昇格しました。 
 しかしすでに、紅葉狩りハイカーの大半は鉄道からマイカーに移行していました。今、江田駅は最盛期に比べ静かな秋を迎えています。

概要マップ

概要マップ(江田駅)

 

その他の写真

開通当時の江田信号所を西側から見る(大正6年) 

04 開通当時の江田信号所を西側から見る(大正6年)

江田信号場を東側から見る・右手前は待避線(昭和30年代、国府田英二氏提供)

05 江田信号場を東側から見る・右手前は待避線(昭和30年代、国府田英二氏提供)

江田仮乗降場で降車する人々(昭和30年代、国府田英二氏提供)

06 江田仮乗降場で降車する人々(昭和30年代、国府田英二氏提供) 

江田信号場の女性ハイカー(昭和30年代、国府田英二氏提供)

07 江田信号場の女性ハイカー(昭和30年代、国府田英二氏提供)

江田信号場付近の踏切(昭和30年代、白石吉孝氏撮影)

08 江田信号場付近の踏切(昭和30年代、白石吉孝氏撮影)

江田駅を旧退避線から見る(昭和63年4月、いわき市撮影)

09 江田駅を旧退避線から見る(昭和63年4月、いわき市撮影)

江田駅ホームから駅前を見る(平成8年10月、いわき市撮影)

10 江田駅ホームから駅前を見る(平成8年10月、いわき市撮影)

江田駅を利用する子どもたち(平成11年11月、いわき市撮影)

11 江田駅を利用する子どもたち(平成11年11月、いわき市撮影)

江田駅に停車する「SLあぶくま号」(平成17年10月、吉田暁欧氏撮影)

12 江田駅に停車する「SLあぶくま号」(平成17年10月、吉田暁欧氏撮影)

 

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