メニューにジャンプ コンテンツにジャンプ

『平駅前大通り1』(平成27年3月4日市公式Facebook投稿)

問い合わせ番号:14551-8422-2565 更新日:2015年3月4日

【いわきの『今むがし』 Vol.18】

【空襲による被弾・焼失区域図(平市街)】

空襲による被弾・焼失区域図(平市街)

 平(現いわき)駅が開設されたのは、明治30年(1897年)2月のこと。当時は、現在でいう並木通りは存在していましたが、その通りと本町通りとを結ぶ南北の通りは、路地のような細い道路しかありませんでした。江戸時代には町人屋敷(一~五町目)と武家屋敷(田町、白銀町)は堀で区切られ、並木通りと本町通りの往来は限定されていて、道が狭くても十分に機能したからです。
 明治時代から昭和時代にかけて平は商業地として、駅前や本町通りを中心として発展していきましたが、現在の銀座通りや中央通りが開削されたものの、十分な道路幅員を確保できませんでした。このため、昭和12年(1937年)に市制施行した平市は、市にふさわしい、平駅から真っ直ぐに延びる道路の開設を計画したものの、家屋が密集しているうえに、その延長上の本町通りには大きな商店が居並び、到底ここを突き抜くことはできない状況でした。
 それでも、昭和12年(1937年)に中国大陸で始まった日中戦争は昭和16年(1941年)には世界を巻き込んだ大東亜戦争(戦後、連合国軍総司令部の命令で「太平洋戦争」と呼称)に拡大させたものの、アメリカ軍の攻勢により戦局は次第に悪化し、日本の市街地が空襲にさらされる状態となりました。
 政府は、建物被害を少しでも食い止めるため、市街の一部を「建物疎開」と称して取り壊す命令を出し、平市街では平駅前から並木通りに沿って、駅前の西側に立つ3階建ての住吉屋や平市庁舎(現在の立体橋の付け根に所在)が撤去されました。
 ところが、皮肉にもそれ以上の、もっと大きな破壊がアメリカ軍によってもたらされました。
 東京大空襲のあった昭和20年(1945年)3月10日、平市街の西部区域、研町、鍛冶町、材木町などが空襲で焼かれ、次いで同年7月26日には平第一国民学校(現平第一小学校)が、そして3度目となる同年7月28日には、駅前から南方へ、三町目、大町、南町などが空襲を受け、焼け出されたのです。

【幅員30メートルの道路が完成して間もない頃の駅前通り〔昭和30年(1955)頃〕】

昭和30年頃の駅前通り

 第二次世界大戦は、日本側が連合国軍から突き付けられたポツダム宣言を無条件に受け入れることで終結しました。
 しかし、全国の主要都市のほとんどが空襲で焦土化していたことから、これらの都市を復旧・復興させることが大きな課題となりました。
 その基本となったのは、昭和20年(1945年)12月、政府が閣議決定した「戦災地復興計画基本方針」でした。3回の空襲で市街区域を被災・焼失した平市も準備態勢を整えました。政府は昭和21年(1946年)4月、「特別都市計画法」を公布。これに基づいて、戦災復興院の告示により、同年4月、福島県が主体となって平市街の火災予防や美観のため道路を規則的に区画する「平復興都市計画道路停車場及び土地区画整理事業」が認可されました。
 この計画区域の目玉となる駅前通りについて、内務省は連合国軍総司令部(GHQ)の意向に沿って、また将来の都市規模の拡大を想定し、新設道路の幅員を 36メートルとする案を樹立しました。空襲のうち、3回目の昭和20年7月28日の空襲では平駅前から南方に細長く、ほぼ直線に家屋が焼失し、空地状態となっていたことから、これをなぞるように、駅前から新たに南北幹線道路を敷設しようとする大事業でした。
 しかし、実施には困難を極めました。対象区域の2割が道路に転用されるため、家屋面積がその分削減される内容だったからです。幅員30メートルに計画変更しても関係者の反発は収まらず、反対者は本町通りと同じ幅員を主張するなど、溝は深まるばかりでした。
 このため、平市議会は調停に乗り出し、一方の県平戦災復興事務所(後に平復興建設事務所)は本省と折衝を重ね、防火の関係からも30メートルの確保は必要として、昭和24年(1947年)には、一部立ち退き・取り壊しの強制執行を発動して事業を進めました。
 当初は計画のなかに舗装工事はありませんでしたが、将来に備え駅前から新川橋際(現在の新川緑地公園)までの舗装工事が完了したのは、昭和28年(1953年)初頭のことでした。

お問い合わせ

総合政策部 ふるさと発信課
電話番号:0246-22-7402
ファクス番号:0246-22-7469