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『好間町』(平成26年10月29日市公式Facebook投稿)

問い合わせ番号:14551-8391-1531 更新日:2014年10月29日

【いわきの『今むがし』 Vol.9】

【好間町中好間下川原、鍛冶内付近の国道49号〔昭和41年(1966年)11月 いわき市撮影〕】

昭和41年の好間町

 いわき市合併前における好間村の面積は26.67平方キロメートルと、合併した14市町村のうちでは、久之浜町に次いで小さいものでした。一方、人口は1万2,465人と、合併した5村のなかで最も多く、また町制を敷いていた遠野町や小川町よりも大きな人口規模でした。
 ちなみに、好間村の人口が最も多かったのは昭和28年(1953年)3月の2万2,644人で、当時、日本で最も人口の多い村として知られていました。
 では、好間村はなぜ町制を敷かなかったのでしょうか。それは昭和10年(1935年)までさかのぼることができます。当時、人口が増加していた平町は、隣接する村、あるいは村の一部を併合して市制施行することをめざしていました。隣接していた、飯野、草野、平窪、好間、内郷の各村は選択を迫られました。
 村の一部を分割することを持ち掛けられた好間村では、村議会において「本村の戸数二千六百有余戸、人口一万三、五〇〇余人を算(かぞ)ふるも、これ鉱業開発に伴なう膨張にして、又、限りある繁栄なり。一度、鉱業終了すれば、寂しい農村と化するは、火を見るより明らかなり」と、すでに将来を考慮した考えを持っており、そのなかで村を分割することに対しては、「将来の存立を危ふ(う)くする惧(おそ)れありと信ず。依(よ)って、本村会は満場一致を以 (も)って、平町長より申し越しの件に対し、同意せざるものとす」、と決めました。
 さて、写真はそれから30年後のものです。この写真を撮影してから3年後の昭和44年(1969年)には、好間地区において炭鉱はすべて姿を消しました。かつて危惧していたことが現実のものとなり、村は人口減少、税収の落ち込みなど危機を迎えましたが、国の施策やいわき市への合併を経て、新たな展開を図ろうとしていた時期です。
 写真は好間市街の東外れ、中好間を写しています。手前は下好間です。国道49号(昭和37年に、国道115号から格上げされて改称)は昭和35年(1960年)度に舗装整備されましたが、まだのどかな雰囲気を感じることができます。

【高台から見た古河好間炭鉱の施設と好間市街〔昭和時代初期 郵便絵はがき〕】

昭和時代初期の好間町

 好間村は、明治時代末期から昭和30年代まで、石炭産業を中心に栄えました。
 写真は昭和時代初期の古河好間炭鉱の様子です。写真左側に見える立坑(大正8年建設)の存在が目立ちます。石炭層は阿武隈高地東縁では地表近くに露頭していますが、そこから海に向って7~10度で傾斜しており、東へ向かうほど炭層は地表から深くなっていきます。このため、明治時代に見られた立坑建設は、その後、技術的な困難さから、次第にみられなくなり、炭層に沿って坑道を掘る斜坑が一般的となっていきました。(後年、常磐炭鉱が立坑を設けたのは、坑道が長くなったことと、技術的な困難を克服したからです。)このことから、当時の古河好間炭鉱の技術の高さがうかがえます。
 写真手前が、石炭積込場です。写真奥からレールを伝って炭車で運ばれた石炭は、ここで一旦受け止められ、下で待ち構えている貨車に積み込まれました。そして石炭はここから、綴(現内郷)駅まで、専用鉄道で運ばれました。写真のなかほど、電柱の立っているラインが専用鉄道のルートと重なっています。
 写真右側の中ほどには、坑木の“山”が見えます。近隣の森林から伐採されたもので、坑内の枠や線路の枕木などに使うために、露天で保管していました。
 写真奥には、好間市街が見えます。炭鉱のおひざ元として、商店や炭鉱の関連会社が進出してにぎわいをみせました。好間村大字上好間や同中好間を中心に、まさに“企業城下町”の呈を成していました。
 こうして古河好間炭鉱を中心とした石炭産業は、昭和40年前後まで半世紀以上の長きにわたり、好間地区を支えたのです。

【好間町中好間下川原、鍛冶内付近の旧国道49号(現市道御台境町-北好間線)〔平成26年(2014年)10月 いわき市撮影〕】

現在の好間町

 石炭産業の発達とともに栄えてきた好間村にとって、石炭から石油へのエネルギー革命は大きな脅威となりました。昭和30年前後から零細・小炭鉱の閉山が相次ぎ、昭和39年(1964年)には、半世紀近く好間村の発展を支えてきた古河好間炭鉱が閉山して、街は大きな衝撃を受けました。(系列会社も昭和44年に閉山)
 以後、上好間や中好間を中心とする商店街も衰退の危機を迎えましたが、同時期、商店街を通る国道49号が舗装拡幅されたことにより、衰退に歯止めがかかりました。「クルマ社会」の進展により、商店街を通る自動車が増えたからです。
 しかし、その後大衆の多くが車を保有するにつれて、移動手段はバスや列車の公共交通機関からマイカーに移行し、買い物にも変化をもたらしました。つまり、駐車に便利な郊外店へ向かうようになり、そのことが街の空洞化と大型店舗の郊外進出に拍車をかけたのです。
 最初の写真から半世紀、好間地区においてもその傾向が続きました。平市街地が東方に控えていたことも郊外化の要因の一つで、加えて宅地化も促進されました。
 商店街や住宅は道路沿いに郊外の東方へ延び、いまでは、平と好間は人家が連なり、駐車スペースを大きく確保したチェーン店が、道路沿いに点在するようになりました。かつて道路から見えていた田んぼは、ほとんど見ることができません。
 さて、最初の写真との比較です。同じ撮影ポイントを探し出す手がかりとなったのは、いうまでもなく山の形です。連なる山の稜線のうち、1か所だけ突出している山が見えます。この特徴的な山が、標高735メートルの水石山です。
 阿武隈高地の東縁に位置し、山頂から平や好間などの平地や太平洋を一望できるその存在は、逆に麓のまちからは、日々仰ぎ見る特別な存在です。

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