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『勿来駅』(平成26年8月6日市公式Facebook投稿)

登録日:2014年8月6日

【いわきの『今むがし』 Vol.3】

【開設後の勿来駅〔明治35年(1902年)頃〕】

明治35年頃の勿来駅

 明治30年(1897年)2月、日本鉄道磐城線(現JR常磐線)水戸‐平(現いわき)が開通し、同時に勿来駅が開設されました。
 駅の場所は江戸時代に宿場でにぎわった関田集落の西側で、周囲には松山寺の門前集落があったものの、それ以外は周囲に水田が広がる場所でした。
 駅舎は今の東側でなく、西側に設けられました。駅の西方4キロメートルの位置に窪田市街があり、そのまた西方には石炭を採掘する炭鉱が控えていましたから、貨客数量の多い西側に設けたのは、当然といえば当然のことでした。(ちなみに、鉄道敷設に反対したので、今の場所に設置したという説には、何の根拠もありません)
 駅名については、当初暫定的に「窪田」が当てられていました。当時は行政名としても窪田村となっていましたから、窪田駅とする予定だったのです。これに対し、関田地区民は有名な「勿来関」が近くにあることから、さらなるアピールをするために「勿来」を要望しました。この結果、最終的に「勿来」となりました。それは同時に「勿来」という名称が、半ば公称として名づけられる最初のことで、鉄道を通じてその名が全国に広がったのです。
 これ以降、窪田村は石炭産業の発達などで人口が増え、町となる要件を満たしていましたが、さすがにこの場合は、町の名称をめぐってまとまらず、なかなか町制を果たすことができませんでした。ようやく、意見がまとまって、大正14年(1925)5月、窪田村が勿来町へ町制を果たしました。これが「勿来」の名称が行政名となった始まりでした。
 写真は、駅東方にある小高い山から撮ったものです。ちょうど、上り蒸気機関車が駅を出発するところで、すでに駅前には人家が見えています。
 この後、明治39年(1906年)には石炭運搬の専用軌道が駅から窪田村大字酒井の炭鉱まで敷設され、さらに明治42年(1909年)1月には駅から窪田村大字白米まで貨客を扱う「勿来軌道」が開通(翌年に川部村大字小川まで延長)。人の往来、木材や石炭の運搬などで駅西側は賑わいを見せ、またたく間に駅前集落ができあがりました。

【勿来駅東口(昭和40年〔1965年〕8月、松本正平氏撮影・松本正夫氏提供)】

昭和40年の勿来駅東口

 昭和30年代に入り、高度経済成長が続くなか、好景気とともに第二次、第三次産業は拡大傾向をみせ、人々は業務で遠方に出かけるようになり、またレジャー、娯楽を楽しむ余裕が生まれるようになりました。
 このころから特急や急行に準ずる、中距離用の「準急」が登場し、昭和33年(1958年)から、上野‐平(現いわき)に気動車準急「ときわ」が3往復して、その一部が勿来に停車し、その後便数が増やされていきます。
 昭和34年(1959年)からは、水戸‐平‐磐越東線経由‐仙台の準急「いわき」が運行を開始、昭和35年(1960年)からは水戸-仙台を走る準急「そうま」が運行を開始し、それぞれ勿来駅に停車しました。
 準急「ときわ」は昭和41年(1966年)から急行「ときわ」へ昇格しましたが、その後、昭和44年(1969年)に臨時特急として登場した特急「ひたち」が増便するなか、昭和60年(1985年)に吸収されて消滅。このとき初めて特急「ひたち」の一部が勿来駅に停車するようになりました。
 一方、貨物取り扱いについては、勿来駅の周辺の工業化が著しく、また石炭産出地であったことから、大口貨物を中心に鉄道輸送が堅調に推移していました。昭和31年(1956年)度において、勿来駅は水戸鉄道管理局内では貨物取扱量で6位、全国でも100位にランクされていました。
 写真が撮られた昭和40年(1965年)といえば、国道6号の新道が駅に面して開通してから10年後。足元はまだ砂利敷です。駅前は拡張されたものの、整備半ばといったところでしょうか。
 それでも、夏にもなると、勿来駅は海水浴客の乗降で賑わいました。勿来駅舎前で撮られた写真も、家族や友だちと海水浴場まで向かうところなのでしょう。日差しは暑くても、もうすぐ味わえる海の感触。写真はその期待感で満ちて見えます。
 この年、勿来海水浴場の入り込み客は70万人に達しました。東京からは臨時列車が仕立てられるようになります。駅から海水浴場までは人や自動車、バスが数珠つなぎとなり、今では考えられないような光景を見ることができました。

【勿来駅西口〔昭和43年(1968年)、いわき市撮影〕】

平成43年の勿来駅西口

 ところで、勿来駅には東口、西口をめぐってさまざまなドラマがあったことをご存じでしょうか。
 開業まもなく、石炭産業の発達とともに勿来駅の貨物取り扱いは増え、側線を増設しなければならない状況となりました。石炭を積み替えするうえで、どうしても本線の西側に側線を設けなければならず、このためにやむを得ず明治45年(1912年)5月に駅舎を東口へ移設しました。
 このことにより、窪田方面から来る駅利用者は、わざわざ東側に回って乗車しなければならず、大変不便になりました。これを解消しようと、大正4年 (1915年)には、窪田村長らが西側の駅舎開設を求めて陳情。この問題は東口から跨線橋を渡すことにより一応の決着をみましたが、駅西側からの貨客が増加し、荷さばきの観点からも西口駅舎開設が検討課題となりました。
 昭和時代初期には西側に待合所および改札所を設置しました。
 しかし、昭和12年(1937年)には昭和人絹錦工場(現クレハいわき工場)と結ぶ専用線が開通し、駅は抜本的な改築を迫られたことから、駅舎を東側から西側に付け替えるとともに、側線や貨物積込みホームなどを増築、さらに東口にも関田出入口を設け昭和15年(1940年)3月に全工事を完了させました。
 さらに転機が訪れます。昭和30年(1955年)に駅東口に接して、国道6号線(現国道6号)が開通します。これに対応して、駅前広場が確保され、すべてのバス発着が東口側に集約されました。
 東西口を結ぶ人道橋が設けられた昭和39年(1964)ころから老朽化による駅改築が課題となりましたが、東西口の取り扱いをめぐって、西口廃止の鉄道側と西口存続の商店街や住民との間で調整がつかず、ようやく朝夕の通勤・通学時のみ、西口の改札機能だけを残すということで合意し、待合室や改札事務は廃止されました。
 駅東口の増改築は昭和45年(1970年)3月に完成、まもなく西口における朝夕の改札は廃止となりました。

【勿来駅(平成26年〔2014〕8月、いわき市撮影)】

現在の勿来駅

 鉄道輸送は、マイカーや大型乗合バスによる旅行、高速バスによる長距離移動、トラック輸送の増大など、いわゆる「クルマ社会」の進展で貨客数ともに、そのシェアを減らしていきました。
 勿来駅の貨客も同様で、乗降客は減少傾向が続き、貨物取り扱いは平成15年(2003年)3月で終了となりました。
 こうしたなか、国鉄が改組してスタートしたJRは平成2年(1990年)、市が進めるイメージアップ作戦の一環として、駅待合室の出入口に関所をイメージした高さ3.7mのヒノキの門を設けました。待合室中央の床にも、関跡の石碑が描かれました。
 続いて、平成9年(1997年)6月、市とJRによって手狭だった勿来駅前広場が従来の1.5倍、2,370平方メートルに拡張されるとともに、広場内の植栽や新たな誘導路、そして駅舎入口には新たに高さ2.2mの冠木門が設置されました。
 平成14年(2002年)10月には、この年の「鉄道の日」記念行事の一環として「東北の駅100選」選考委員会が設けられ、歴史が息づく駅やデザイン・景観の優れた駅など、さまざまな観点から、東北地方で100か所、特徴のある駅が選定され、その一つとしていわき市では唯一「勿来駅」が選ばれました。
 その後、JRは平成25年(2013年)3月、入口近くに木目調のシートを張ったアルミ棚を設定し、待合室を木目調の落ち着いた歴史を感じさせる色調に塗り替えました。
 駅前には相次いで銅像やブロンズ像が設置され、駅舎、駅前広場は文化の薫りを感じさせる一帯へ生まれ変わりました。それまでは単なる乗降の場として機能していた駅。時代を経て、地域の歴史や文化を象徴する場として、新しい意義を持ち始めたのかもしれません。

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