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『久之浜漁港』(平成26年12月24日市公式Facebook投稿)

登録日:2014年12月24日

【いわきの『今むがし』 Vol.13】

【久之浜町・陰磯第二海水浴場〔大正時代 郵便絵はがき〕】

大正時代の久之浜町・陰磯第二海水浴場

 大正時代の絵はがきには、「館山展望台より水清澄なる陰磯第二海水浴場を眺む」と表記してあります。
 当時、久之浜海水浴場は、当初2か所設定されていました。大正時代初期に開設された前磯と呼ばれ、市外に近い大久川右岸に設置された久之浜第一海水浴場、もう一つは殿上(とのがみ)岬内側の陰磯と呼ばれる浜に設置された久之浜第二海水浴場でした。久之浜第二海水浴場は波が静かな浜であることから、女性や子どもの遊泳に適していました。
 また、現在の久之浜港は殿上岬の北側の湾を利用して整備されていますが、かつては、殿上岬の南側、突端から突き出ている横磯、鍋(なべ)磯などの天然防波堤の内側を利用していました。その場所は大久川が海に注ぎ込む河口の先、左岸にも位置していました。ここに漁船を係留した漁民は小舟に魚を移して浜に接近して、待ち受けていた荷揚夫の運び桶に移し替えて水揚げする、という漁業を営んでいたのです。 
 殿上岬の北側は、岬と磯という自然地形を利用して、海水浴と漁業が共存していた時期が続きましたが、漁船の大型化に対応することはできませんでした。また南からの波浪をまともに受け、沖では常時船舶の航行があるものの、付近に避難する港もないため漁船の難破が絶えず、明治27年(1894)から大正元年 (1912)の間の被害は、破船51隻、死者67人、負傷者73人に及びました。
 この間、町や漁業関係者は築港の陳情を繰り返し、この結果、明治39年(1906)には福島県議会において港湾修築の建議案が可決されました。修築の対象となったのは、殿上岬の北側、平等山(びょうどうさん)(立山)の南側、海水深く湾入する陰磯と呼ばれる小さな溺れ谷状の湾。建議案が可決された後も、関係者は、ここを整備する要望活動を続けました。湾内の暗礁を除去し、防波堤を築くとともに、市街から湾に通じる道路の開削を施工することによって良港になると訴えたのでした。

【久之浜漁港〔昭和42年(1967年)2月 いわき市撮影〕】

昭和42年の久之浜漁港

 久之浜漁港の築港については、大正2年(1913年)度から同6年(1917年)度にかけ、さらに昭和7年(1932年)から同10年(1935年)まで県、国の補助で防波堤を築造することにより築港が進み、次第に漁港としての体裁を整えていきました。
 一方、併せて課題となっていた避難港としての位置付けについては、石城郡(いわきぐん)では小名浜、四倉、双葉郡では久之浜、請(うけ)戸(ど)、相馬郡の原釜の各港が競うことになりました。北は鳥崎岬から塩屋埼までの約60キロメートルの海域は海岸線地形の変化に乏しく、投錨(とうびょう)地がないことから、長い間設置要望を続けてきた久之浜港が指定されることになりました。昭和32年(1957)5月のことでした。
 この指定より少し前の昭和20年代後半、国は地方への権限と税を委譲するとともに、町村合併によって、行政体の“体力増強”を図り、昭和28年(1953年)10月から3年間の時限立法となる「町村合併促進法」が施行されます。具体的には、人口8,000人を目安として、町村合併を進める「昭和の大合併」が全国各地で始まりました。
 双葉郡の南域では、久之浜町、大久村、広野町の合併が対象となりましたが、それぞれに課題を抱えていました。広野町は合併によって、町の主事業が避難港建設中心となってしまうという懸念、大久村では豊富な森林資源の取り扱い、久之浜町では港湾整備で多くの事業費を必要としており、また郡をまたいで財政豊かな石城郡四倉町との関係が濃く、特に町の南域・江之網周辺では四倉町との合併を強く望んでいました。
 その後、昭和31年(1956年)6月に施行された「新市町村建設促進法」下においても協議は整いませんでした。
 避難港としての整備が始まったのは、昭和37年(1962年)のこと。昭和45年(1970年)度の完成をめざし、当初予算は10億円という大型事業で、単独で事業を継続していくには、多くの困難が伴いました。
 こうしたなかで、新産業都市指定に向けた「常磐・郡山地区」のなかに、大久村とともに、久之浜町が参画していくようになったのです。

【現在の久之浜漁港 〔平成26年(2014年)12月、いわき市撮影〕】

現在の久之浜漁港

 久之浜の漁業については、いわき地方の各漁港が遠洋に乗り出して、漁船の大型化に力を注いでいくなか、早い時期に沖合漁業から撤退し、好漁場を持つ沿岸漁業に力を注ぎました。昭和36年(1961年)度には「新農山漁村振興対策特別助成事業」として活魚蓄養施設を設置して漁家の経営安定化を図るなど、漁業環境のソフト整備にも努めました。
 したがって、40t級の沖合底曳き網船を筆頭に、刺し網漁船、船曳網漁船など、中・小型の漁船が大半を占め、久之浜漁港には、ヒラメ、イシモチ、ドンコ、ヤリイカ、アンコウなど30種から40種の鮮魚が水揚げされます。
 現在は、第二種漁港(利用範囲が第一種よりも広く、全国的な利用範囲の第三種に属さないもの)に位置付けられており、底引網漁業の基地として機能しているほか、平成14年(2002年)4月には、久之浜港にいわき市漁業協同組合(平成12年に市内7漁業協同組合が合併)の漁業総合管理施設・荷さばき場(水揚げ市場)、事務所が新築落成し、近海漁業の中枢としての役割も担ってきました。
 また避難港としては、昭和55年(1980年)に着手した沖防波堤が平成元年(1989年)に完成し、航行の安全に貢献しています。
 このようななかにあっての東日本大震災。東京電力福島第一原子力発電所の事故で放射性物質が海上に流出し、特に沿岸漁業は大きな痛手を被りました。それでも以前のような漁港のにぎわいを取り戻すため、久之浜漁港関係者の努力が今も続いています。

このページに関するお問い合わせ先

総合政策部 広報広聴課

電話番号: 0246-22-7402 ファクス: 0246-22-7469

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