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『上市萱と上三坂の街並み』(平成26年11月12日市公式Facebook投稿)

問い合わせ番号:14551-8351-7073 更新日:2014年11月12日

【いわきの『今むがし』 Vol.10】

【かつて街道筋として栄えた三和町上市萱〔昭和54年(1979年)12月、いわき市撮影〕】

昭和54年の三和町上市萱

 磐越自動車道や国道49号の幹線道路から外れた、三和町上市萱(かみいちがや・かつては上一萱とも表記された。)の市道。道路に沿って、200メートルの間に20軒ほどの家屋が並んでいます。短冊型に区画された小さな街村です。
 ここは、かつて街道が通じ、通称・三坂街道と呼ばれていました。(江戸時代、五街道以外に正式な名称が付されていなかったため、街道はその土地ごとの名称が付されていた。)
 この街道は、平の通称・浜街道で分岐し、搔槌小路、久保町、好間、沢渡を通り、ここ上市萱から上三坂、小野新町へ続いています。上市萱と上三坂の間では、険しい長沢峠を通らなければならないため、上市萱は峠を降りてきた者には一息つける場所、峠越えをしようとする者にとっては、入念な準備をする場所でした。
 家々はいずれも古くから住んでいて、「問屋」「澤太屋」「叶屋」「恵比寿屋」「山形屋」「山中屋」「柏屋」などの屋号が付けられており、江戸時代にはそれぞれ必要なモノをそろえて旅人を迎え、重要な宿場機能を備えていたのです。
 それでも古い記録や証言をつなぎあわせていきますと、昔ここには集落がなかったといわれています。下市萱村の諏訪神社近くで大火があり、一部住人が集団で移住し、その時に「諏訪」という地名を新たな土地に付けたといいます。現在も、この集落は上市萱字諏訪という地名となっています。
 写真は、旧街道とこれに沿う家並みを撮影したものですが、かつて、この集落は軒並みに重厚な茅葺き屋根が並んでいました。茅はススキやオギの総称で、丈夫で長持ちし、20から30年までほど使えました。しかし、昭和40年代以降、相次いで瓦屋根に葺き替えられて、この時すでに茅葺き屋根は、あまり残っていません。

【国道349号から見る上三坂の集落。背後に三倉山の連なり〔昭和56年(1981年)6月 いわき市撮影〕】

昭和56年の三和町上三坂の集落

 旧街道・長沢峠(標高差約160メートル、長さ約1.3キロメートル)の北側に位置するのが、旧三坂宿です。長沢峠を挟んで、南に上市萱、北に上三坂と街道沿いにそれぞれ成立していましたが、上三坂の場合は上市萱に比べて古く、少なくとも中世の15世紀半ばまでさかのぼることができます。
 当時、岩城氏と同盟を結んだ三坂氏が集落背後の三倉山に山城を築き、一帯に勢力を誇示し、西方の田村氏と対峙(たいじ)していました。現在でもその名残が山中のあちこちに見ることができ、麓の上三坂字中町には城下町が配置されていました。また、この地は、東へ向かうと合戸、好間、平、西に向かうと平田、守山、南に向かうと竹貫(古殿)、石川、北へ向かうと中三坂、川前、北東へ向かうと小野町、三春、南東に向かうと入遠野と、それぞれ上三坂を軸に道路が放射状に延びており、交通の要所でもありました。
 かつて宿場は高台に位置していましたが、水はけが悪く火災に遭ったのを機に現在の地に引越し、その際に短冊形の計画的な町割りを造りました。昭和40年代に旧街道の道路が舗装される前には、道路の中央に掘割が設けられていて、芝山からの清流を引き入れ、防火・生活用水として使用していました。
 宿場は物資の集散地として栄え、本陣を中心に、扇屋、吉田屋、富田屋、石川屋、吾妻屋、三坂屋などの屋号で呼ばれた、多種多様な店が軒を並べ、多くの旅人が往来していました。
 しかし、大正6年(1917年)に磐越東線が全通、さらに大正時代から昭和時代にかけて、交通手段が荷馬車から自動車に移行するにつれて、かつての勢いを失いました。さらに、新道となる国道49号が集落の北側を、国道349が集落の西側を、それぞれ開通すると、静かなたたずまいを見せる集落となりました。
 それでも、時代を経て、古さが見直される機運が高まり、古民家の再生など新しい動きも見せている上三坂の旧宿です。

【三和町上市萱の現在〔平成26年(2014年)10月 いわき市撮影〕】

現在の三和町上市萱

 最初の写真に見えていた茅葺きの屋根が、トタンを被せた屋根に取り換えられたのは、平成6年(1994年)のことでした。雨漏りがあり、残しておきたくても、肝心の屋根を葺き替えてくれる職人がほとんどいなく、この家を最後に上市萱から茅葺き屋根が姿を消しました。
 かつて、農山村に当たり前のように見えていた草屋根(茅葺き、藁葺きなどを総称した言葉)。江戸時代から明治時代にかけて日本を訪れた外国人は、家が木と紙で造られているのに驚いた、といわれますが、そこには四季に移ろいや多湿という風土と折り合うように創りあげてきた文化があることに気づかない視点でした。
 しかし、昭和20年(1945年)に戦争が終わり、アメリカ文化が入ってくるとともに、生活様式の洋風化・近代化が進み、その一方で会津地方を中心として葺き替えを専門に行う茅手職人の生活が豊かになり、冬場の茅手出稼ぎの必要性がなくなっていきます。
 行政も、防火の観点から、農家などの草屋根を解消に努め、福島県は昭和34年(1959年)度から同38年(1963年)度まで、「藁(この場合、茅も含む)屋根解消資金融資に対する利子補給」の制度を設けました。
 この結果、昭和38年度調査では、常磐市、久之浜町、大久村を除くいわき地方では、草屋根は住家5,622棟、非住家3,477棟、合せて全体の11.3%を占めていました。このため、昭和38年度からは、低利資金の融資あっせんを導入して、草屋根の解消をめざしました。
 この間、三和地区においても家屋の洋風化が進み、昭和55年(1980)に市教育委員会でまとめた「市民家調査」では三和地区で「茅上トタン張り」を含めた茅葺き屋根は120戸以上ありましたが、平成4年(1992年)の支所の調査では9戸に減少していました。
 家屋一つ一つみていくとき、少しずつ、ゆっくりと、屋根の形は変わり、世代が交代していますが、集落全体でみるとほとんど変わらないたたずまい。特に、新道開通以降、上市萱の旧宿は静かな歳月を刻んでいます。

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総合政策部 ふるさと発信課
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