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『いわき駅』(平成26年7月9日市公式Facebook投稿)

問い合わせ番号:14551-8347-5615 更新日:2014年7月9日

【いわきの『今むがし』 Vol.1】

【平駅(大正時代末期あるいは昭和時代初期、郵便絵葉書、佐々木商店発行)】

昭和時代初期の平駅

 明治時代、鉄道は文明の旗頭でした。まだ、道路が整備されていず、乗り物も馬車や荷車の時代、いきなり線路が敷かれ、煙を吐く鉄の塊が登場したのですから、人々の驚き様はいかばかりだったでしょうか。
 その鉄道が平(現いわき)駅まで開通したのは、明治30年(1897年)2月のことでした。福島県から茨城県にかけて石炭が産出し、それを運ぶために敷設されたのです。それまでは最寄りの海岸から船運で東京などの市場に送られていたのですが、海難事故に遭うと、その損失も莫大なものになってしまいました。そのため、陸路の鉄道輸送が求められたのです。
 敷設したのは、日本鉄道株式会社という、今でいえば第三セクターの会社で、水戸-平の間は「磐城線」と名づけられました。その後、「磐城國(いわきのくに)」と「常陸國(ひたちのくに)」を結んだことから1字ずつをとって「常磐線」と改称され、今に至っています。
 写真は、平駅を東側から撮影したもので、おそらく大正時代末期、あるいは昭和時代初期のものと類推されます。
 ところで、皆さん、疑問に思いませんか? そう、いまでは当たり前の彩色なのです。これは「手(しゅ)彩色(さいしき)絵はがき」と呼ばれるもので、まだカラー写真の技術がない時代、白黒写真を印刷したものに手作業で彩色したうえで、絵はがきの形式に仕上げたものです。このため、シリーズ化されたものは、何種類も異なった絵はがきが出回ることになります。そこからは、今のデジタル写真とは違った意味での自由な発想を感じることができます。
 このほか、この絵葉書からは、駅前に並べられた人力車、登場したばかりの公衆電話、郵便ポスト、夜をまばゆく照らす街路灯と、さまざまな“小道具”を見ることができます。

【平駅(昭和47年〔1972年〕11月、いわき市撮影)】

昭和47年の平駅

 平駅が石炭輸送の中継地であったことはあまり知られていません。今ではとても想像がつかないように思いますが、まだ、磐越東線が未通(大正4年に平-小川郷、大正6年に平-郡山が、それぞれ開通)の時代は、好間や小川、赤井などからの石炭が馬車鉄道(線路の上を馬車が貨車をけん引する形態の鉄道)などで盛んに運ばれたのです。
 その証拠に平-湯本は開通したその年、明治30年(1897年)8月に複線化されたのです。常磐線における現在区間の複線化が完成したのが大正時代末期であったことを考えると、その重要性がわかります。
 好間村で産出する石炭が明治41年(1908年)に完成した専用鉄道で綴(つづら)(現内郷)駅に運ばれ、また小川村や赤井村に磐越東線が開通し、それぞれ駅が開設するようになると、石炭貨物の取り扱いは減少し、それに代わるように、乗降客が増えていきます。
 明治時代から大正時代にかけて、石炭を採掘する事業は資源エネルギーの乏しい日本にあって、その発展を支える石炭産業として大きく成長し、いわき地方の経済活性化に大きく寄与していきます。
 平は急速に消費都市としての側面が濃くなり、これに比例して駅の乗降客扱いが年々増加し、大正時代半ばには、県下一の乗降客でにぎわうようになりました。
 平駅は、その後も街の推移を見続けましたが、太平洋戦争を経て、昭和30年代以降の高度経済成長期に入ると、老朽化が目立つようになり、建て替えが迫られるようになりました。
 写真は、建て替えの直前に撮られたものです。夕陽を浴びた駅舎は古さのなかにも重厚さを備えた佇まいで、残り少ない時間を惜しみながら、新たな時を待っているようにも見えます。

【駅名改称直前”最後の平駅”(平成6年〔1994年〕12月、いわき市撮影)】

平成6年の平駅

 太平洋戦争によって、日本の主要都市はアメリカを主体とした空襲を受け、焼け野原と化しました。平市街も3度の空襲を受け、大きな被害を受けました。幸い平駅は被害に遭わなかったが、戦後計画された戦災復興都市計画においては、常磐線の付け替え、平(現いわき)駅舎の移転(小太郎町付近)を含む大規模な都市改造になるはずでした。
 しかし、計画が変更されるなかで、平駅舎は現状維持となりました。
 このことは別に、日本国有鉄道(現JR)は戦災に遭った駅舎を地元と共同で計画することを進めていました。すでに戦前から大阪の私鉄などでは実績を上げていたことから、地元からの資金を得て、駅舎内に商業施設を設けることとした。これらは民衆駅と呼ばれました。
 平駅の場合、直接戦火には巻き込まれなかったが、駅舎改築の際は、この民衆駅スタイルを持ち込むことにしました。しかし、国鉄の場合は鉄道事業以外には直接投資ができないため、地代収入しか得られないことから、直接投資できない状況でした。
 このため、同形態による民間出資による平駅ビル「ヤンヤン」が昭和48年(1973年)7月にオープンしました。
 そうした駅舎の改築に併せて、駅名改称の論議も盛んに行われた。当時はいわき市が発足してから7年、「いわき」という名称の付く駅が常磐線になく、市PRの観点からも「いわき」を付すことが必要という意見が出たが“時期尚早”として見送られました。
 その後も駅名改称の論議はたびたび起こり、平成7年(1995年)に福島県で開催される国民体育大会を前に大きく盛り上がった。多くの意見が出そろうなか、全国から選手団や応援が多数来市するに際し駅名改称は必要として、平成6年(1994年)12月に現在の「いわき駅」へ改称されました。
 写真は、その直前に撮影したものです。

【いわき駅を東側から見る(平成26年〔2014年〕7月、いわき市撮影)】

現在のいわき駅

 「ヤンヤン」の愛称で市民に親しまれていたいわき駅は、いわき駅周辺再生拠点整備事業の進ちょくに伴い、平成19年(2007年)9月に34年の歴史に幕を閉じました。
 代わりに、駅舎改築、南北自由通路、南口駅前広場のペデストリアンデッキ、バスターミナルなどが整備され、同年10月には橋上新駅舎に移転したほか、駅前には、市立いわき総合図書館や市民サービスセンター、商業テナント、事務所などの施設が入居する再開発ビル「ラトブ」(LATOV)が開業しました。
 また、平成21年(2009年)6月には、橋上駅舎に付随した「いわき駅ビル」が開業しました。翌年3月には南駅前広場が完成し、一帯は様相を大きく変えました。
 この写真は前の写真と同じ位置から撮影したもので、横断歩道が同じです。駅舎がずいぶん西側(写真奥)に移動し、その分、駅前(写真左枠外)にあったパスプールが、当時の駅ビルの位置に移動したことがわかります。
 大きく変貌を遂げたいわき駅および駅前。変わりゆく風景のなか、次の時代には何を吸収して、この風景にどのような新たな息吹を溶け込ませるのでしょうか。

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