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『錦町須賀』(令和4年8月15日市公式SNS投稿)

登録日:2022年8月15日

いわきの『今むがし』Vol.152

海辺の須賀集落・「歩こう歩こう会」のハイキング〔平成9(1997)年11月、いわき民報社撮影〕

海辺の須賀集落 錦町須賀は鮫川河口の右岸に位置する70世帯弱、200人余の小さな集落でした。集落の東は太平洋に面し、北は鮫川、西は支流・中田川に面しています。
 江戸時代から集落の存在は確認され、近くの中田村安良町や米倉村台の二、三男や、神奈川県、千葉県、新潟県などから新たな土地と仕事を求めて移り住んできた人でできた集落だと考えられています。
 一般的に川や海の砂州は、砂原の土地または川や海を望む高みの土地となっていて,古くから「州」、あるいは「州処(すか)」と呼ばれ、「須賀」や「菅」などの文字が当てられていました。全国的にも、いわき地方の海岸部においても、須賀と名づけられた地名が数多くみられます。
 須賀浜は砂浜であったことから、地引漁業というごく初歩的な漁業に拠らざるを得ず、典型的な零細の半農半漁として、主に海地引網と鮫川の川地引網を行っていました。
 海地引ではイワシ、アジ、サバ、サヨリなどが捕れ、川地引ではサケ、ウナギ、ボラ、スズキ、ハゼ、ウグイなどが捕れました。
 須賀浜は菊多浦とも呼ばれていました。千葉県の銚子には「菊多浦ではイワシの大漁」という言葉があります。これは、大正時代から昭和時代にかけて盛んに使われた言葉で、“菊多浦でイワシが揚がれば次は銚子の番だ”、という意味です。菊多浦でイワシが捕れると、これを合図に銚子港でも出漁の準備に入ったそうです。
 地引網漁は、昭和35(1960)年前後に須賀浜から姿を消しました。
地引網漁が消えた後、須賀浜では海の観光地引網として継続されました。昭和時代末頃から勿来漁業協同組合が主体となり、須賀住民の協力を得て、7、8月の2か月間、鮫川河口水域のマルタ、ボラ、セイゴなどを対象とした「須賀観光地引」を行っていました。
 平成23(2011)年3月の東日本大震災で須賀集落が被災する以前まで、夏季を中心に子供会などが約600mもある地引網を楽しみ、セイゴやスズキなどの“海の恵み”を引き上げる光景が風物詩となっていました。
 

須賀集落内の市道を行くサーファー(平成7年8月、高萩純一氏撮影)

須賀集落内の市道を行くサーファー 須賀集落は鮫川と海に囲まれているため、災害に遭いやすい地形でした。集落を囲む堤防ができるまでは、暴風や大雨による災害から家屋を守るため家の周囲に土塁を築き、竹を植えました。                            
 昭和20年代から河川改修が進み、堤外地となった須賀集落は高潮や波浪の危険に晒される度合いが高くなったことから、昭和34(1959)年には下流域の須賀地区周辺の家屋や田畑を水害から守るため、集落を囲む高さ4m、延長1,200mの堤防が設置されました。
 しかし、これで完全に集落が守られたわけではありませんでした。昭和52(1977)年10月の台風11号がいわき地方を通過した際には、一気に水が海へ流れ込み、一方で河口が海からの砂で塞き止められたため、堤防が決壊して大きな被害をもたらしました。
 この間、昭和40(1965)年度から蛭田川河口から鮫川河口の約1,300m区間の須賀海岸高潮対策として、人工リーフの築造や防潮堤の増強を内容とする錦町地区海岸保全事業がスタートしました。事業の進捗は平成10(1998)年時点で約54%と記録されています。
 その後も事業が進められましたが、平成23(2011)年3月に発生した東日本大震災の大津波によって、抜本的な見直しが図られることになりました。
錦町須賀地区では、鮫川の支流・中田川から津波が溯上するとともに、海岸沿いの集落が大津波により大きな被害を受けました。
その後、住民で立ち上げた「錦町須賀復興協議会」と市が検討を重ねた結果、集団移転を決めました。
 この結果、防災集団移転促進事業により勿来錦第一土地区画整理事業区域内の錦町ウツギザキに21世帯、7世帯が同土地区画整理事業区域内に建設される災害公営住宅市営錦団地(64戸、平成26年4月に入居開始)、残る11世帯は個別に探した住居へ移転し、さらに残る16世帯の住民は海岸部の防潮堤をかさ上げするなか、元の場所で居住、とそれぞれが分散することになりました。
 さまざまな地域から集まってきて集落を築いた須賀集落の住民は、大震災という禍を乗り越えるように、それぞれの“道”を模索しながら新しい生活をスタートさせています。               
(いわき地域学會 小宅幸一)

その他の写真

海地引網(昭和時代初期、郵便絵はがき)

3 海地引網(昭和時代初期、郵便絵はがき)

 

須賀集落の西側で鮫川に注ぐ中田川の水門(平成7年8月、高萩純一氏撮影)

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鮫川河口の地引網・ふるさと再発見(平成10年7月、いわき市撮影)

5 鮫川河口の地引網・ふるさと再発見(平成10年7月、いわき市撮影)

 

東日本大震災の津波で被災した「中田川水門」(平成23年3月12日、門馬俊次氏撮影)

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大津波で被災した須賀集落(平成23年3月19日、いわき市撮影)

7 大津波で被災した須賀集落(平成23年3月19日、いわき市撮影)

 

東日本大震災の津波で被災した須賀集落(平成23年4月8日、佐川紘一氏撮影)

8 東日本大震災の津波で被災した須賀集落(平成23年4月8日、佐川紘一氏撮影)

 

被害住宅が撤去(平成24年7月、いわき市撮影)

9 被害住宅が撤去(平成24年7月、いわき市撮影)

 

なこその希望アートフェスタ2014(平成26年3月、いわき市撮影)

10 なこその希望アートフェスタ2014(平成26年3月、いわき市撮影)

 

防潮堤のかさ上げ工事施工(平成27年4月、いわきジャーナル撮影)

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熊野神社祭礼前日の勅使童児が精進潔斎のため須賀海岸へ(平成29年7月、いわき市撮影)

12 熊野神社祭礼前日の勅使童児が精進潔斎のため須賀海岸へ(平成29年7月、いわき市撮影)

 

復興をめざす須賀集落(平成30年3月、いわき明星大学震災アーカイブ室撮影)

13 復興をめざす須賀集落(平成30年3月、いわき明星大学震災アーカイブ室撮影)

 

防潮堤のかさ上げ工事が完成(平成30年3月、いわき明星大学震災アーカイブ室撮影)

14 防潮堤のかさ上げ工事が完成(平成30年3月、いわき明星大学震災アーカイブ室撮影)

 

東日本大震災後改修された中田川水門を学ぶ小学生(平成30年9月、いわき民報社撮影)

15 東日本大震災後改修された中田川水門を学ぶ小学生(平成30年9月、いわき民報社撮影)

 

新しい「中田川水門」(平成31年4月、医療創生大学震災アーカイブ室撮影)

16 新しい「中田川水門」(平成31年4月、医療創生大学震災アーカイブ室撮影)

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電話番号: 0246-22-7402 ファクス: 0246-22-7469

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