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『鮫川渓谷(たかしば湖)』(平成28年11月16日市公式Facebook投稿)

登録日:2016年11月16日

いわきの『今むがし』Vol.59

豪快に流水が落ちる「大瀧」 現在は「たかしば湖」に沈んでいます。〔昭和時代初期 郵便絵はがき 小宮山商店発行〕

1_菊多名所絵葉書・大瀧の奇岩怪石(昭和10年頃、郵便絵はがき、小宮山商店発行)  鮫川は東白川郡鮫川村に端を発し、北流して石川郡古殿町に入り、さらに南東に流れ、田人町石住でいわき市に入る、延長約60kmに及ぶ二級河川です。
 市内では御斎所(ごさいしょ)街道に沿って流れ、やがて遠野町根岸を過ぎると、流れを南方に変え、渓谷となって南下します。
 この急峻な渓谷状の地形は、地殻変動によって南北方向に伸びる井戸沢(いどさわ)断層に沿って岩石が粉砕され、この砕かれて弱くなったところを川が一気に侵食してできたもので、谷壁が硬い岩石で構成され、河床だけが侵食されるという条件が加わって深いV字形となりました。
 ここには「西行戻し(さいぎょうもどし)」の伝説があります。
 文治2(1186)年、当時69歳の西行法師は自然と旅を友として奥州を行脚(当地に来たという記録はない)し、数多くの和歌を残しました。当地方にも訪れたとされ、たまたま会った村人に景色の良い大滝があることを知らされました。法師は鮫川の谷に入って、大滝をめざしました。
 そのとき、一人の空の籠を背負って鎌を持った少女に出会いました。法師が少女に用向きを問うと、少女から、「冬ほぎて 夏枯れ草を 刈りに行く」という連歌の上の句が帰ってきました。上の句を告げられた場合、下の句で答えるのが礼儀でしたが、法師は下の句を継ぐことができませんでした。少女の詠んだ“夏枯れ草”の“草”は麦のことで、少女の機知に法師はとっさに気づかなかったのです。このため、法師は「神様が私のおごり高ぶった心をこらしめたのであろう」と自分の未熟さを悔い、そこから戻らざるを得なかったといいます。
 このことから、大滝の少し上流付近が「西行戻し」と名づけられました。訪れる人を拒むほどの険しい岩と急流を象徴したものとみることができます。
 現在、龍神橋の端には「西行法師巡錫(じゅんしゃく)乃地」と刻んだ碑(昭和31年建立)や「鮫川渓谷・龍神峡・西行戻し」の看板が建っています。
 この渓谷には北側から龍神峡(ごつごつした岩に急流がぶつかり、白波を立てて蛇行する様子が竜のようだった)、ずるびき滝、大滝、まんじゅう滝、長瀞(読み:ながとろ)(岩が幾重にも連なっている)、犬戻しの絶壁、金也渕などの絶景が点在し、訪れる人の目を楽しませてくれました。
 昭和11(1936)年発行の『小学校郷土読本』は鮫川の様子を、次のように伝えています。
 「(鮫川は)入遠野川を併せて更に水量を増し、一曲がりし、また渓谷に入って有名な大滝となる。この辺り両岸相近づき川幅次第に狭く、僅かに一丈余に迫れば水勢ほとばしって深い滝壺に直下し、怒声雷の如く目をくるめかしめる。而(しか)して奇岩怪石岸を埋め、『猫戻し』『犬戻し』などの勝地がある。猫も犬も通れぬのでこの名があるとのことだ。つつじ(サツキか?)の咲く頃、紅葉する頃、いずれも景色もよい」
 この文章にあるように、鮫川渓谷はツツジ(サツキ)の名所でもありました。
 磐城平藩・内藤家文書の『萬覚書(よろずおぼえがき)』の元禄10(1697)年4月25日には、徳川光圀公が隠密に渓谷のサツキを見物に来ることになったので、道路の清掃や渡し船の準備をするように、との触れを出したことが記録されていました。(実際、来たかどうかは不明)
 大正15(1926)年7月2日付の『常磐毎日新聞』は、「奇岩怪岩屹立して奔放之に激し、今を盛りに咲き誇るサツキの間に河鹿啼くなど却々に捨て難き風情」と名調子で紹介しています。
 時代を経て、平成12(2000)年10月には、「遠野の清流・鮫川を考える会」が、龍神峡整備事業の一環として、周辺から採取したサツキを、龍神橋付近の渓谷の岸にある岩の隙間や土手などに苗を植栽し、サツキの名所復活をめざしました。

たかしば湖 〔平成21(2009)年11月、鮫川流域ネットワーク撮影〕

2_たかしば湖(平成21年11月、鮫川流域ネットワーク撮影) 昭和25(1950)年5月に「国土総合開発法」が公布されると、治山治水を根底に置いた、河川総合開発の機運が高まり、これが地域経済開発の一翼を成すという考え方が全国的な潮流として定着しました。福島県においては只見川開発とともに、いわき地方の開発が現実味を帯びてきました。
 昭和28(1953)年には開発の受け皿となる、県、各市町村、議会、企業などの関係者で構成された「常磐地区総合開発期成同盟会」(会長=県知事)が組織され、いわき地方全体の目標となっていきました。
 県総合開発審議会では開発の一つとして、工業化・都市化の進む小名浜地区や勿来地区へ工業用水(後の磐城工業用水道)や上水道用水を供給するとともに、台風などにより大雨が降った場合、大量に下流に流れて水害が起きないように、流水の一部を一時的にダムに溜め、洪水調節に大きな力を発揮する鮫川総合開発事業がまとめられ、強力に推進されました。
 ダムの建設場所としては複数の案が挙がりましたが、最終的には鮫川渓谷の出口寄りと決まりました。V字形を形成した両岸の地盤の硬さが、このときは建設適地として決め手になりました。
 ダムの建設(重力式コンクリート、高さ59.5m、長さ163.5m、総貯水量1,270万㎥)は、昭和32(1957)年に調査が開始され、昭和34(1959)年1月に本体工事が着手、昭和37(1962)年9月には完成。同年10月から送水が開始されました。福島県では最初の多目的ダムでした。名称については、右岸にそびえる高柴山にちなみ「高柴ダム」と名づけられました。
 ダムの完成によって、渓谷の両端にある龍神峡と金也渕だけが往時の姿をわずかに見せるだけで、渓谷美の大半は「たかしば湖」(周囲11.5km)の湖底に沈んでしまいました。
 現在は、紅葉真っ盛りの11月下旬、龍神峡付近で毎年「遠野もみじまつりin龍神峡」が行われ、渓谷と紅葉の織りなす美しい景色が訪れる人を迎えてくれます。

周辺マップ(現在)

3-1_周辺マップ 

周辺マップ(旧)

3-2_周辺マップ(旧) 

その他の写真

4_春雨に煙る大滝(昭和時代初期、郵便絵はがき)

4_春雨に煙る大滝(昭和時代初期、郵便絵はがき) 

5_鮫川渓谷・長瀞(昭和9年)

5_鮫川渓谷・長瀞(昭和9年) 

6_鮫川渓谷・大瀧(昭和30年頃、板津音吉氏撮影)

6_鮫川渓谷・大瀧(昭和30年頃、板津音吉氏撮影) 

7_鮫川渓谷と岩に立つモデル(昭和30年代、長谷川達雄氏撮影)

7_鮫川渓谷と岩に立つモデル(昭和30年代、長谷川達雄氏撮影) 

8_龍神峡に植栽されたサツキ(平成17年5月、櫛田幸太郎氏撮影)

8_龍神峡に植栽されたサツキ(平成17年5月、櫛田幸太郎氏撮影) 

9_龍神峡の秋景色(平成17年11月、櫛田幸太郎氏撮影)

9_龍神峡の秋景色(平成17年11月、櫛田幸太郎氏撮影) 

10_「遠野の清流・鮫川を考える会」による、龍神峡へ降りる遊歩道の整備(平成19年2月、櫛田幸太郎氏撮影)

10_「遠野の清流・鮫川を考える会」による、龍神峡へ降りる遊歩道の整備(平成19年2月、櫛田幸太郎氏撮影) 

11_龍神峡探訪(平成20年7月、遠野支所撮影)

11_龍神峡探訪(平成20年7月、遠野支所撮影) 

12_鮫川・龍神橋付近の紅葉(平成20年12月、遠野支所撮影)

12_鮫川・龍神橋付近の紅葉(平成20年12月、遠野支所撮影) 

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電話番号: 0246-22-7402 ファクス: 0246-22-7469

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